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婚約破棄? ご自由に。ただし違約条項は執行させていただきます 〜「地味な文書係」と捨てられた令嬢、その婚約契約書を書いたのはわたしです〜  作者: 白石アリア


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9/11

第9話:原本は、嘘をつけません

 約束の三日は、瞬く間に過ぎた。


 公開検分の朝。公証院の大検分室は、久しく無いほどの人の入りだった。天井まで届く書架、磨き上げられた長卓。その中央に、たった一枚の羊皮紙が、絹布の上に置かれている。


 婚約契約書第十七条の違約を、両家が相互に免除したという「合意書」。日付は、調印の翌月。


 上座に執行局長ライナルト大公。左右に執行局の官吏と、公証院の立会人たち。バルシュミーデ側は侯爵とクレメンス、末席にロゼッタ嬢。こちらは、わたしと、書類箱を抱えたミルテだけ。


(役者は揃った。……さあ、紙に語らせましょう。)


「開始する」大公の声に、今日も抑揚はない。「議題は一つ。当該合意書は真正か、否か。真正なら執行停止は続く。偽物なら、第十七条は効力を取り戻す」


「真正に決まっている!」


 声を張ったのは、クレメンスだった。


「ヴェッセル家の印もある! 署名もある! 当家の書庫から出てきた、正式の紙だ! 文句のつけようがないだろう!」


「ええ、見事な紙ですわ」


 わたしは立ち上がり、一礼した。


「見事すぎて、三つほど、余計なことまで語ってくれるのですけれど。……執行局長様。検めの許可を」


「許可する」


「では、一つ目。紙そのものから」


 わたしは、ミルテから一冊の帳面を受け取った。


「この合意書の羊皮紙は、南方鞣しです。仔山羊の皮を南方の樹の渋で鞣したもので、きめが細かく、白い。北方鞣しより上等で——そして、新しい」


「これは、王都の皮紙商組合の仕入れ台帳の写し。南方鞣しの羊皮紙が初めて王都に入ったのは、去年の春。組合長の署名入りで、そう記されております」


 わたしは、合意書の日付を指した。


「この合意書の日付は、二年前の秋の、翌月。……つまりこの紙は、二年前の王都には存在しませんでした。書かれた日付より、紙のほうが新しいのです」


 ざわ、と列席が揺れた。クレメンスの喉が、上下する。


「そ、それは……当家が、特別に取り寄せたのかもしれんだろう」


「二つ目。墨です」


 わたしは構わず続けた。


「立会人様。文字の端を、針の先ほど削り取ってくださいませ。余白側の一画で結構です」


 立会人の一人が小刀を取り、静まり返った検分室で、署名の脇の一字をそっと削った。薬液を張った小皿に、黒い粉が落ちる。誰もが、皿を覗き込んだ。


「鉄墨は、鉄と渋と膠の配合で、家ごとに癖が出ます。二年前のヴェッセル家の墨は膠が濃く、薬液の中で粒が繋がって沈む。……ですがこの墨は、ご覧のとおり、ばらばらに散っている。配合が違う。——うちの墨では、ありません」


「す、墨くらい、よそから……!」


「三つ目。封蝋の押し目です」


 わたしは、封蝋の縁を示した。


「ヴェッセル家の印は、蝋が冷めきる一拍前に押します。父の教えで、先の執行審でも立証済みの、うちの作法です。冷めてから押せば、縁が割れる。……立会人様、この封蝋の縁を」


「——割れて、いる。細かい罅が、縁に沿って、ぐるりと」


「わたしの家の印を、わたしの家の作法を知らない手が、押しています」


 クレメンスの顔は、もう白かった。侯爵が、ゆっくりと息子に顔を向けた。


「クレメンス。……この紙は、どこから出た」


「ち、父上まで! ですから、書庫から出てきたと……!」


「わたくし、少し、気分が優れませんの」


 末席で、ロゼッタ嬢が立ち上がった。青ざめた横顔は、婚約者のほうを見もしない。衣擦れの音だけを残して、扉へと歩いていく。沈みかけた船から、するりと降りるように。


(賢いこと。……でも、降りるには、少し遅いわ。)


「静粛に」大公が言った。「ヴェッセル側、続きは」


「はい。紙、墨、押し目——三つの綻びを申し上げました。ですが、何よりの証しは、この部屋にはございません」


 わたしは、床を指した。正確には、床の下。この公証院の、地の底を。


「公証院の原本庫にございます。真正の合意書なら、公証の手続きを経て、正本が納められているはず。納められていなければ——この紙は、写しのふりをした、宙から生まれた紙ということになります」


「よって、原本庫の照合請求をいたします。偽物は、細部に宿ります。そして——原本は、嘘をつけません」


「……お待ちいただきたい」


 声を上げたのは、バルシュミーデ側ではなかった。公証院の立会人の列、その中央。銀の房飾りを下げた年配の立会人が、静かに、しかしはっきりと言った。


「原本庫の開扉には、副総裁の裁可が要る。本日、副総裁は登院しておられない。照合は後日、改めて願いたい」


「検分の席での照合請求です。院則では、検認人の請求と執行局の立ち会いで足りるはずですけれど」


「例外は認められぬ。原本庫は院の心臓。手続きを踏まぬ開扉は、一切ならん」


(……あら。)


(羊皮紙にも墨にも眉ひとつ動かさなかった方が、扉の話になった途端、ずいぶんと熱心。)


 院の中に、手がある。その手応えは、もう気配ではなく、体温だった。


「で、でたらめだ!」


 クレメンスが、椅子を鳴らして立ち上がった。


「紙が新しい? 墨が違う? 全部言いがかりだ! 紙切れの、こじつけだ! 原本庫など開けたところで、な、何も——」


「何も、と」


 大公が、初めて席を立った。


「まだ誰も、中に何が有るか無いかの話はしていない。……面白いことを言う」


 大公は答えを待たず、検分室の奥——原本庫へ続く鉄の扉へ、静かに歩き出した。銀房の立会人が、両腕を広げて立ち塞がる。


「執行局長といえど、ここは公証院の聖域で……!」


「開扉を阻む理由が、手続きなら、手続きで応じる」


 氷の声が、言った。


「——執行局長権限で、開ける」


 お読みいただきありがとうございます。

 紙、墨、押し目——三つの綻びを詰めまして、いよいよ原本庫の扉の前です。開けさせまいとする方が、なぜかバルシュミーデ側ではないのが、この事件のいちばん嫌なところ。

 次話、扉が開きます。ブックマーク・評価で応援いただけると、とても励みになります。


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