第10話:署名の重さを、教えて差し上げます
原本庫の鉄扉が、十年ぶんの軋みを上げて、開いた。
冷たい石の匂い。地下へ降りる階段。燭台の火が、壁一面の棚を順々に照らし出していく。羊皮紙の綴りが、家名ごと、年ごとに、几帳面に眠っている。
この国の、約束のすべてが眠る場所。
(お父様が、生涯を捧げた場所。)
わたしは、書類箱を抱えたミルテと、燭台を掲げる立会人たちに続いて、階段を降りた。銀房の立会人は、大公の「執行局長権限」の一言のあと、蒼白のまま口を閉ざしている。
「登録簿を」
大公の声が、地下に低く響いた。
公証院で作られたすべての正本は、登録簿に記される。何年、何月、どの家と、どの家の、何の契約か。登録簿に無い正本は存在せず、正本の無い契約書は——公証院の印を持てない。
当該の年、当該の月の頁が、開かれた。
二年前の、初冬。バルシュミーデ家とヴェッセル家。
「……婚約契約書の正本、登録あり。調印は秋。これは先の執行審で照合済みの、あの十八枚」
立会人が、指で行を追う。会場から降りてきた列席者たちが、固唾を呑んで見守る。
「翌月の欄。バルシュミーデ家、ヴェッセル家——」
指が、止まった。
「——登録、なし。当該両家の合意書は、この月、公証院に持ち込まれておりません。前後半年に広げても、ございません」
「棚も検めていただけますか」わたしは静かに言った。「登録簿の書き漏らし、という言い逃れが、あとから生えてまいりませんように」
棚が、検められた。バルシュミーデ家の区画。ヴェッセル家の区画。二年前の綴り、その前後。
合意書の正本は——どこにも、なかった。
大公が、振り返った。地下の冷たい静けさの中で、氷の声が、一語ずつ、はっきりと告げた。
「確認する。当該『合意書』は、公証院に正本を持たない。登録簿に記録を持たない。——公証院の印を持つ資格の、そもそも無い紙である」
「よって執行局は、これを偽造文書と断定する」
大検分室に戻ったとき、バルシュミーデ侯爵は、十も老け込んで見えた。
「執行局の裁定を下す」
大公は上座に立ったまま、座らなかった。
「一つ。『合意書』は偽造。よって婚約契約書第十七条は、効力を取り戻す。停止していた執行は、本日ただいまをもって再開する。グランベルク銀鉱山には、封札を貼り直す」
「二つ。偽造文書を検分の場に持ち込み、執行を妨げた行いについて、バルシュミーデ家に問う。——この紙は、誰が、どこから持ち込んだ」
沈黙が、痛いほどだった。
最初に口を開いたのは、侯爵だった。
「……クレメンス。答えよ」
「ち、父上……ぼ、僕は、ただ……」
「答えよ!」
老侯爵の怒声に、元婚約者様は、びくりと肩を跳ねさせた。そして、あの夜会で朗々と婚約破棄を歌い上げた声を、見る影もなく震わせながら、吐き出した。
「し……仲介の者が、いたんです。う、うちの窮状を聞きつけて、向こうから。『執行を止められる紙がある』と……金貨三百で……ほ、本物と寸分違わぬから、絶対にばれないと……登録簿がどうとか言われても、突っぱねればいいと、そう言われて……」
(——それで「開けたところで何も」なんて、口走ったのね。)
(何も無いことまで、教えられていた。あなたに紙を売った手は、原本庫の中身を知っている手よ、クレメンス様。)
わたしは、一歩、前へ出た。
「クレメンス様。ひとつだけ、教えて差し上げますわ」
震える元婚約者を、わたしは、怒りではなく——本当に、ただの事務として、見た。
「あなたは二年前、読まずに署名なさった。ひと月前、わたしを紙ごと捨てられた。そして今日、偽の紙に、家の運命を預けられた。……三度とも、あなたは紙を軽んじて、三度とも、紙に裁かれています」
「署名の重さを、教えて差し上げます。署名とは、あなたの代わりに、紙が永遠に喋り続けるということ。——だから、わたしたち公証人は、一枚を書くのに、あれほど時間をかけるのです」
クレメンスは、もう、何も言わなかった。衛兵に促されて退出する彼を、扉の外で待つ人影は——なかった。ロゼッタ嬢は、とうに院を出たあとだった。
「残る、一つ」
大公の声が、検分室の空気を、もう一度張り詰めさせた。
「クレメンス卿に紙を売った『仲介の者』。偽造印章を彫り、家々の作法を写し、原本庫の中身を知る手。——公証院に、問う」
灰青の目が、立会人の列に向いた。正確には、銀の房飾りに。
「貴殿は本日、開扉を三度、阻もうとした。副総裁の裁可、聖域、手続き。……よく回る舌だったが、一度も『中に正本がある』とは言わなかったな。無いことを、知っていたか」
銀房の立会人の額に、汗が浮いた。
「わ、私は……私はただ、規則を……ほ、本当に、何も。私はただ、言われた通りに、開扉を止めよと……」
「誰に」
「…………」
「誰に、言われた」
立会人の唇が、震えながら、開いた。
「……ふ、副総裁。ドロテウス・ハルトゥング様に……」
ざわめきが、書架の天井まで駆け上がった。
公証院副総裁。この院の実務の頂点。院則を編み、登録簿を統べ、原本庫の鍵を預かる——お父様の失脚の後、この院を実質仕切ってきた、その人。
(……出た。)
(偽造印章。院の作法を知る手。原本庫の中身を知る手。全部の線が、一番太い一本に、繋がっていく。)
わたしは、袖の中で、黒檀の印章を握った。
(お父様。あなたが十年前に失くしたとされる「原本」の話——わたし、ずっと、おかしいと思っていたの。)
(あなたほどの人が、紙を失くすはずが、ない。)
その日の夕刻。バルシュミーデ家の鉱山事務所に、封札が貼り直された。二度目の封札は、一度目より、几帳面に。
執行局の詰め所の窓から、わたしは暮れていく王都を見ていた。隣に、ライナルト様が立つ。
「勝ったな。……完全に」
「はい。今日のところは」
「ドロテウスは、副総裁だ。院則の中に城を築いた男で、登録簿も原本庫も、奴の庭になる。……ここから先は、これまでより、ずっと硬い紙を破ることになるぞ」
「ええ」
わたしは、頷いた。怖くないと言えば、嘘になる。けれど。
「殿下。わたし、今日、いちばん確かめたかったことを、確かめましたの」
「……何を」
「原本庫は、生きています。登録簿は、正直でした。紙は——この国の紙は、まだ、腐りきってはいません。腐っているのは、紙ではなく、鍵を預かる手のほう」
「なら、話は簡単ですわ」
わたしは、扇を閉じて、微笑んだ。
「手を、替えればよろしいのよ」
ライナルト様が、ふ、と息を漏らした。あれはたぶん、この方なりの、盛大な笑い声だ。
「……いい条項だ。執行しよう」
お読みいただきありがとうございます。偽造は暴かれ、封札は貼り直され、読まずに署名し続けた方は三度目の紙に裁かれました。ここまでが、この物語の最初の山です。お付き合いくださって、本当にありがとうございます。
そして——ついに出た名前、公証院副総裁ドロテウス・ハルトゥング。十年前、お父様が「失くした」とされた原本。次のアークは、公証院の心臓部との対決です。
ユスティーナの紙は、院則の城にどこまで届くのか。ブックマークと評価(★)で、そっと背中を押していただけると嬉しいです。次話でお会いしましょう。




