第11話:副総裁は、慇懃に脅す
公開検分から、三日。
ヴェッセル家の書庫には、また、依頼の紙が積みはじめていた。偽の合意書を暴いた検認人の噂は、封札より早く王都を回ったらしい。持ち込まれるのは、揉めた契約、怪しい証文、泣き寝入りしかけの約束たち。
「お嬢様。本日も、三件」
「拝見します。……ミルテ、日付の突き合わせをお願いね」
「はいっ!」
悪くない日々だった。その馬車が、門の前に停まるまでは。
黒塗りの、公証院の紋章入り。降りてきたのは、深い臙脂の官服に、金の鎖を下げた老人だった。豊かな白髪。柔和な、笑み。
「ごきげんよう。——ユスティーナ嬢、で、よろしいかな」
名乗られる前に、分かっていた。
公証院副総裁、ドロテウス・ハルトゥング。
(……向こうから、来たわね。)
「ようこそお越しくださいました、副総裁様。あいにく、当家の当主は不在ですけれど」
「構いませんとも。用があるのは、当主どのではない。……あなたです」
老人は、勝手に書庫へ入ってきた。積まれた依頼の紙を、金の鎖を鳴らしながら、ゆるりと見て回る。
「ほう。ほうほう。これはこれは。……ずいぶんと、繁盛しておられる」
「おかげさまで」
「結構、結構。紙を検める目は、この国の宝です。わたくしも、先日の公開検分の顚末は伺いましたよ。お見事な検めぶりであったとか」
(白々しい。あなたの部下が、扉の前で名前を吐いたのよ。)
わたしは、笑みを返した。淑女の礼法どおりの、完璧な角度で。
「恐れ入ります。……それで、副総裁様。本日のご用向きは」
「ああ、そうそう。忘れるところでした」
老人は、懐から一枚の書状を出し、卓に置いた。公証院の、正式な印。
「ユスティーナ嬢。あなた、公証人の免状を、お持ちでない」
書庫の空気が、すっと冷えた。
「先の執行審で、あなたはご自分で仰った。『ヴェッセル家の紙は、わたしが書いてきた』と。名義は当主のもの、起草はあなた。……これはですな、お嬢さん。院則に照らせば、名義の偽りと申すのですよ」
「免状なき者が、免状ある者の名義を借りて、公証の紙を起草し続けた。二年——いや、あなたの口ぶりでは、もっと長い。これは公証制度の根幹を揺るがす、由々しき事態です」
(……そう来たのね。)
(わたしの得物を、罪に裏返す。偽造を暴かれた意趣返しに、わたしの一番の誇りを、一番の咎に。)
「よって、公証院は資格審問を開きます。議題は、あなたの起草行為の適法性。そして——ヴェッセル家が保管する起草関連の記録一切の、院への引き渡し」
「記録の、引き渡し」
「ええ、ええ。検めねばなりませんからな。あなたが書いてきた紙のすべてを。この書庫の、綴りのすべてを」
老人の目が、書架の奥へ向いた。柔和な笑みの底で、瞳だけが、値踏みをしている。
(書庫が、狙い。)
(わたしの資格なんて、口実だわ。この人が欲しいのは——お父様の、遺した記録。)
十年前、お父様は「原本を失くした咎」で院を追われた。あの几帳面な人が、紙を失くすはずがない。失くしたのではなく——見つけたのだとしたら? 見つけてはいけないものを、見つけてしまったのだとしたら?
「審問の日取りは、七日ののち。それまでに、嘱託検認人の任は、停止していただきます。院則第四十条、係争中の者は検認に立てない。……ご存じですな? 規則には、お詳しいようだから」
「——結構ですわ」
わたしは、頷いた。
「規則は、守るためにございます。七日後、審問の場に参ります」
「聞き分けがよろしい」老人は満足げに頷き、それから、ふと思い出したように付け加えた。「ああ、それと。老婆心ながら、ひとつ」
戸口で、老人は振り返った。
「先代のゲルハルト卿はな、わたくしの、古い同輩でした。惜しい人でしたよ。実に、惜しい。……才のある者ほど、触れてはならぬ紙に、触れたがる」
「あなたは、よく似ておられる。——在りし日の父君に、ではない。あの晩の、ゲルハルトに」
馬車の音が遠ざかっても、わたしはしばらく、動けなかった。
あの晩。
お父様が院を追われた、あの晩のことを、この人は知っている。当事者の顔で、知っている。
「……お嬢様」
ベンノ爺が、青い顔で立っていた。四十年、この家に仕えた老書記の手が、微かに震えていた。
「あの方が、この書庫に足を踏み入れた日のことを……わたくしは、一生、忘れませなんだ。十年前も、あの方は、ああして笑いながらお見えになった。そして、その七日後に——旦那様は、院を追われました」
「同じですわね、ベンノ。手口が」
わたしは、卓の書状を取り上げた。資格審問。記録の引き渡し。七日後。
(十年前と、同じ筋書き。目障りな公証人に、咎を着せて、紙を奪う。)
(でも、副総裁様。ひとつだけ、十年前と違うものがございますのよ。)
わたしは、インク壺の隣の、黒檀の印章を手に取った。
(あの晩のお父様には、いなかった——お父様の紙を、全部読んで育った娘が、今度は、おりますの。)
夜、報せを受けたライナルト様が、雨のなか馬を飛ばしてきた。濡れた外套のまま、開口一番。
「審問を、受けるのか」
「受けますわ」
「相手は、院則そのものを書いてきた男だ。奴の土俵で、奴の規則で裁かれる。……執行局は、院の人事と資格には、手を出せん」
「存じております」
わたしは、微笑んでみせた。この方が悔しそうな顔をなさるので、かえって、腹が据わった。
「ですから殿下、これは、わたしの番ですの。あなたの剣も、執行も届かない場所の戦い。——紙と、規則と、記録だけの戦場。それはつまり」
黒檀の印章を、掌で、静かに握り込む。
「わたしの、庭ですわ」
お読みいただきありがとうございます。ついに黒幕、副総裁ドロテウスが自分から乗り込んでまいりました。狙いはユスティーナの資格——ではなく、書庫に眠る「お父様の遺した記録」。十年前の失脚と、まったく同じ筋書きです。
けれど十年前と違い、今度は「紙を全部読んで育った娘」がいます。次話、審問までの七日間。武器を奪われたユスティーナの、静かな反撃の準備がはじまります。
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