第12話:庭を取り上げられた庭師
庭だ、と啖呵を切った翌朝から、庭仕事が禁じられた。
公証院の触れは、封札よりも速く王都を回ったらしい。「ヴェッセル家のユスティーナ嬢は資格審問につき、嘱託検認人の任を停止」——たったそれだけの紙切れが、書庫の門の景色を、一夜で変えた。
「……申し訳ないね、お嬢さん。うちも、院に紙を検めてもらう商売だ。睨まれるわけには、いかないんだよ」
反物商の内儀が、目を伏せて証文の綴りを引き取っていく。三日前には「あなたさまだけが頼り」と言った、同じ口で。
「お預かりした写しは、こちらに。……道中、雨に濡らされませんよう」
わたしは綴りを布で包み、丁寧にお渡しした。続いて、麦酒醸造所の番頭。こちらは目も合わせず、受け取りの署名だけ済ませて、逃げるように去っていった。
「揉め事の紙を、夜なべで読み解いて差し上げたのは、先週のことでしたかしら」
「お、お嬢様……」
「言ってみただけよ、ミルテ。お見送りは、丁寧にね」
午前のうちに、二人。昼を過ぎて、また一人。積み上がっていた依頼の紙が、店じまいの棚のように、みるみる薄くなっていく。誰も、わたしの検めが間違っていたとは言わない。ただ、院の触れ一枚が、わたしの十年より重い。それだけのことだった。
「なんで……なんでですか! お嬢様は、なにも悪いことをしていないのに!」
ミルテが、空になった書見台を睨んで、唇を噛んだ。
「悪いことをした、と言われているのよ。それも、規則の言葉でね。……いいの、ミルテ。皆さん、暮らしがおありだもの」
(いいのよ、と言えるように、声だけは整えておくの。……ほんとうは、指の先が冷たいけれど。)
夕刻、最後に戸口へ立ったのは、日に焼けた、ごつい手の男だった。金物工房の、ハンネス親方。
(……ああ。この方も、引き取りにいらしたのね。)
ところが親方は、紙を包むどころか、どすんと椅子に腰を下ろした。
「おれの紙は、置いていきやす。次の取引の証文も、そのうち持ってくるんで」
「親方。わたしはいま、院に睨まれておりますのよ。工房に、障りが出るかもしれません」
「かもしれねえな」親方は、こともなげに頷いた。「けど、おれは字ぃが読めねえ分、人の目は見えやす。……おれは、あんたの紙に救われた。沈む船から真っ先に降りるような義理は、持ち合わせてねえんでさ」
不器用な言い方だった。だからこそ、まっすぐ胸に刺さった。
「……お茶を、お淹れしますわ。とびきり濃いのを」
「おう。砂糖は、三つで頼みまさ」
(——一人。残ってくださる方が、一人。)
(大丈夫。庭の広さは、院が決めても。庭師を辞めるかどうかは、わたしが決めるのよ。)
その晩、叔父オイゲンに呼ばれた。当主の執務室。暖炉が明々と焚かれ、卓には葡萄酒の杯と、真新しい羊皮紙が広げてあった。
「座れ。……いや、立ったままでよい。話は短い」
叔父は、わたしを見なかった。
「こたびの審問でな、院から、当主として証言を求められておる。わしは、こう答える。——『わしは何も知らん。姪が勝手に、わしの名義を使った』とな」
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
「……もう一度、伺っても?」
「二度も言わせるな。名義の管理を怠った咎くらいは、被ってやる。だが起草は、お前が勝手にやったことだ。当主のわしが知らぬと言えば、家は残る。ヴェッセル家はな」
「家は残って、名義の偽りの咎は、わたし一人が着る。そういうお話ですのね」
「お前が始めたことであろうが」
叔父は初めてこちらを向いた。悪びれるでもなく、むしろ、道理を説く顔で。
「副総裁閣下は寛大なお方だ。書庫の記録を院に納め、お前一人が頭を下げれば、家門には累を及ぼさぬと仰せでな。……悪い話ではあるまい」
(取り込まれたのね。もう、とっくに。)
(十年——十年よ。婚礼の契約も、地代の証文も、蔵の借り入れの一枚に至るまで。この家の紙を回してきたのは、誰だと思っているの。それを、「勝手にやった」の一言で。)
(……怒りなさい、ユスティーナ。怒っていいわ。でも、怒りで紙は読めない。……頭は、冷たく。)
わたしは息をひとつ、静かに吐いた。それから——卓に広げられた、真新しい羊皮紙に目を落とした。
「時に叔父様。そちらの、新しいお取引の紙は」
「ふん」叔父の胸が、心持ち反った。「バルツァー商会との、材木の買い付けよ。北の倉を建て直すのでな。前払いで五千ターレル。昨日、わし自らがまとめた。……見たか。お前抜きでも、家は回るのだ」
誇らしげな声だった。五千ターレル。当家の身代で言えば、蔵の底をだいぶ浚う額になる。それを、わたしの目を一度も通さずに。
(この家に来る紙で、わたしが読まずに署名された大口は……これが、初めてね。)
わたしは卓の端から、その紙を一瞥した。父に叩き込まれた順で、目が勝手に走る。
署名、良し。印章、良し。金額の記載、良し。——けれど。
(……納めの期日が、ない。)
(五千ターレルを先に払って、材木を「いつまでに納めるか」が、どこにも書かれていない。品を検める定めもない。これでは商会が一年寝かせようと、腐った材を積もうと、咎める条項がひとつもないわ。)
「叔父様。差し出がましいようですけれど、その紙、納めの期日が——」
「黙れ」
ぴしゃりと、遮られた。
「わしは何も知らんぞ。お前が勝手にやったことだ。……当主はわしだ。文書係が、意見するか」
「——さようでございますか」
わたしは、淑女の礼を取った。完璧な角度で。
(ええ、ええ。当主は叔父様。紙も、叔父様のもの。……でしたら、その紙が呼び込む厄介ごとも、叔父様のものですわね。)
(忠告は、いたしました。一度だけ。)
夜更けの書庫は、静かだった。残った依頼の紙は、ハンネス親方の綴りが、ひと山きり。
「お嬢様、お茶が入りました! あの、蜂蜜も入れてあります。甘いと、頭が回りますから!」
「ありがとう、ミルテ。……でもあなたは、お家へお帰りなさいと言ったはずよ。院に睨まれた検認人の弟子では、この先の勤め口に障るわ」
「わたし、お嬢様の弟子ですから! 院がなんと言っても、です!」
十四の見習いは、湯気の向こうで頬をふくらませた。それから、少しだけ声を落として。
「それに……日付の突き合わせ、まだ半分しか教わっていません。全部教わるまで、辞めません」
……ほんとうに、この子は。
(一人と、もう一人。……わたしの庭は、ずいぶん狭くされたけれど。空っぽには、なっていないのね。)
ベンノ爺が、燭台の火を整えながら、静かに口を開いた。
「お嬢様。嘱託も、依頼も、お家も。……院は、お嬢様の得物を、外から一つずつ折りに来ております。十年前と、同じ順で」
「そうね。次は審問で、わたし自身を折りに来るのだわ」
「はい。……ですから」
老書記は、燭台を置いた。四十年この家に仕えた男の顔から、いつもの穏やかさが、すっと引いた。
「旦那様が院を追われた、あの晩のことを。……そろそろ、お話しせねばなりますまい。わたくしが、この目で見たことの、すべてを」
燭台の火が、ゆれた。
お読みいただきありがとうございます。嘱託停止の効き目はてきめん、依頼人は去り、実家は保身に走り——今回は谷の回です。それでも残る人は残るもので、ハンネス親方とミルテが今話の灯でした。
そして叔父様が「自らまとめた」材木の大口契約、納めの期日がございません。忠告は一度だけ、いたしましたので……この先どうなるかは、ご想像にお任せします。
次話、ベンノが語る「あの晩」の真相です。ブックマーク・評価で応援いただけると、とても励みになります。




