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婚約破棄? ご自由に。ただし違約条項は執行させていただきます 〜「地味な文書係」と捨てられた令嬢、その婚約契約書を書いたのはわたしです〜  作者: 白石アリア


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第13話:黒檀の印章は、二度語る

 燭台の火が、ひとつ、揺れた。


 夜の書庫。依頼の紙が絶えた卓の上には、冷めかけた香草湯が三つ。ミルテが淹れてくれたものだ。四十年この家に仕えた老書記は、湯気の向こうで、深く息を吸った。


「十年前の、あの晩のことでございます」


 ベンノ爺の声は、低く、乾いていた。


「旦那様は、夜半にわたくしを書庫へお呼びになりました。燭を一本きり灯して、扉に閂まで下ろされて。……あんなお顔の旦那様を、わたくしは、後にも先にも存じません」


「お父様は、何と」


「こう、仰いました。——わしは、原本庫で、あってはならぬものを見つけた。在るはずの正本が抜き取られ、無いはずの正本が納まっている。登録簿が、書き替えられている、と」


 ミルテが、小さく息を呑んだ。わたしは、動けなかった。


(在るはずの正本が、無い。無いはずの正本が、在る。)


(……契約の原本を、庫の中ですり替える。登録簿ごと。それは、紙の国の心の臓を、じかに握り潰す所業だわ。)


「旦那様は、その夜のうちに、告発の文を起草なさいました。総裁閣下に宛てて、原本庫の検分と、登録簿の照合を求める文を。わたくしは、清書のお手伝いを」


「その告発文は、どうなりましたの」


「——届きませんでした」


 老書記の手が、膝の上で、固く握られた。


「文が院に上がるより先に、院から咎が下りたのでございます。『法伯ゲルハルト、預かりし原本を紛失せし咎』と。……告発なさるはずだった方が、告発される側に、裏返されました。旦那様は院を追われ、この王都を去られました」


(同じだわ。)


(偽造を見つけた者に、偽りの咎を着せて、先に潰す。十年前のお父様と、今のわたし。筋書きの書き手は、同じ。)


「なぜ、今まで黙っておいででしたの」


 責める声には、ならなかった。ベンノ爺は、ゆっくりと頭を垂れた。


「旦那様のご命令でございました。『確かな証しもなく娘に告げれば、娘は必ず火の中へ飛び込む。時が来るまで、黙して仕えよ』と。……ですが、去り際に、もうひとつ、言い遺されたのです」


 老人は、顔を上げた。濡れた目が、まっすぐにわたしを見た。


「——娘がいつか紙の道に立ったら、伝えよ。わしの検め印は、二度語る、と」


 検め印は、二度語る。


 わたしは、卓の上の、黒檀の印章を見た。


(一度目は、印面。紙に押されて、検めの証しを語る。なら——二度目は?)


 手に取る。掌に馴染んだ、黒い艶。父がわたしに譲った、たったひとつの形見のような印章。譲り渡しの記録は、公証院の登録簿に、十年前の日付で載っている。


 昔、父は言った。書庫の埃の匂いと一緒に、憶えている。


『よく見なさい、ユスティーナ。紙は、書いた人間の心根まで残す。……そして、道具もだ。使い手の心根は、道具の細部に宿る』


(細部に、宿る。)


 わたしは燭台を引き寄せ、印章を火にかざした。印面。側面。柄の彫り。何百回も検めてきた道具を、初めて検める紙のように、隅々まで。


 ——柄の、底。


 黒檀の底板の木目が、側面の木目と、わずかに、流れが違う。


「ミルテ、細工用の小刀を」


「は、はいっ」


 底板の縁に刃先を添え、静かに、回す。かちり、と小さな音がして——底板が、ずれた。二重底。厚みにして紙数枚分の、隠し所。


 中から出てきたのは、小さく畳まれた、一枚の薄紙だった。


 開く。父の手蹟。けれど、並んでいるのは文章ではない。短い印のような字が、行を成して、びっしりと。


「これは……文字、ですか? お嬢様」


「符牒よ、ミルテ」


 声が、微かに震えた。


「ヴェッセル家に伝わる、検めの覚えのための略し書き。お父様とわたししか、読めないの。……家名と、年月。それから、庫の棚の番号」


 読める。読めてしまう。幼いわたしに、遊びのようにこの略記を教え込んだ、父の声ごと。


(抜き取られた正本の、家名と年月。書き替えられた登録簿の、頁。お父様が十年前に見つけた細工の、すべての在り処——)


(これは、地図だわ。この覚え書きのとおりに原本庫と登録簿を照合すれば、十年前の細工が浮かび上がる。いいえ、十年前だけではないわ。あの方がその後も同じ手を使い続けたのなら、十年分の細工をたどる、端緒になる。)


 お父様。


 わたしは、薄紙を胸に当てた。


(あなたは、負けたのではなかったのね。……託して、いったのね。娘が紙の道に立つ日まで、二度目の言葉を、この黒檀の中に。)


「お嬢様……それが、あれば」


 身を乗り出したベンノ爺に、わたしは、首を横に振ってみせた。浮かれるには、まだ早い。


「これは証しではありませんわ、ベンノ。符牒の覚え書きは、お父様の目が見たものの、写しにすぎないもの。原本庫の現物と、登録簿の頁と、突き合わせて——初めて、証しになる」


「原本庫……ですが、お嬢様は嘱託を停止された身。庫にお入りになる資格が」


「ええ。正面の扉は、閉まっておりますわね」


 審問の日は、もう指折り数えるほどに迫っている。時も、立場も、向こうの手の内。それでも。


 わたしは薄紙を畳み直し、黒檀の印章とともに、握り込んだ。冷えた書庫の空気の底で、腹の奥だけが、静かに熱い。


「けれど——原本庫に入る、正当な方法が、ひとつだけございますのよ」


 顔を上げる。燭台の火は、もう揺れていなかった。


 お読みいただきありがとうございます。十年前の真相と、「わしの検め印は、二度語る」の答え合わせ回でした。お父様は負けて去ったのではなく、娘に地図を託していったのです。

 ただし覚え書きは地図であって、証しそのものではありません。照合には原本庫が要る——嘱託停止中の身では、正面からは入れない場所です。次話、ユスティーナの言う「正当な方法」とは。

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