第8話:偽物は、細部に宿る
契約執行局の三階、北向きの検分室。朝から昼を回っても、この小部屋からは紙をめくる音が絶えなかった。
机の中央に据えられているのは、例の「合意書」。婚約の違約を両家が互いに免除するという、たった一枚。十万ターレルの執行を止め、グランベルク銀鉱山の封札まで外させた、あの紙である。
(十八枚の契約書を、一枚の紙で殺しにきた。……ずいぶんと、安く見られたものですわね)
わたしは白手袋の指を組み替えて、その一枚と向き合った。憎むのではない。検めるのだ。検認人は紙に対して、常に礼儀正しくなくてはならない——たとえ相手が、偽物でも。
「偽物は、細部に宿ります」
わたしは手袋の指先で、羊皮紙の縁をそっと撫でた。
「大きな嘘は上手でも、小さな本当までは、真似できませんの」
「ほう。まず、どの細部です」
部屋の隅で腕を組んでいたライナルト大公が、顎をわずかに引いた。執行局長ともあろう方が朝からずっとここにおいでなのは、この紙がよほどお気に召さないからだろう。感嘆も疑問も同じ抑揚で口になさるので、判じにくいことこの上ないけれど。
「第一に、紙そのものですわ」
窓の光に透かすと、繊維の目が浅く、脂の抜き方に独特の照りが残っている。
「この羊皮紙、鞣しの癖が新しいのです。仔山羊の皮を灰汁ではなく海塩で締める、南方の手法。王都に出回り始めたのは、そう古いことではないはずですの」
「去年の春からですな」
戸口から、しわがれた声が割って入った。ベンノだ。老書記は分厚い帳面を胸に抱え、埃を払って机に置く。
「お嬢様。南方鞣しの羊皮紙が王都に入ったのは、去年の春。公証院の仕入れ台帳に、はっきりと。念のため、紙商の荷改めの記録とも突き合わせて参りました」
開かれた頁には、几帳面な細字がびっしりと並んでいる。この方の頭の中には、公証院の五十年分の紙の出入りが、そっくり仕舞われているのだ。ヴェッセル家の古い記録の在処を、誰よりもご存じの方でもある。
「ベンノ。あなたを敵に回さなくて、本当によかったですわ」
「年寄りは、紙の齢を数えるくらいしか能がございませんでな」
「つまりこの『合意書』の日付は二年前の秋、調印の翌月——のはずが」
「紙は、去年より前には王都に存在しなかった」
ライナルト様が引き取った。(相変わらず、結論だけはお早くていらっしゃる)
「第二は、墨ですわ」
わたしは小刀の先で、署名の一画から目に見えぬほどの粉を掻き取り、白磁の小皿に移した。検めの水を一滴。粉は淡く、赤みがかった色を返す。
「ヴェッセル家の鉄墨は、二年前まで、わたしが自分の手で調合しておりましたの。没食子を多めに、緑礬を控えめに。書いた直後は淡く、五年かけて黒く沈む配合です」
「この墨は」
「逆ですわ。緑礬が強く、書いたその日から黒々と見える急ぎの墨。……二年前の書類の顔をした、ずいぶん若い墨ですのよ」
(墨は、書いた者の嘘には付き合ってくれない。お父様の口癖でしたわね)
幼いわたしに墨の擂り方を教えながら、お父様はよく笑っておいでだった。真贋の目は、疑うことではなく、覚えることから始まるのだ、と。
「第三は、署名です」
わたしは末尾を指した。叔父オイゲンの署名と、ヴェッセル家の当主印。筆致そのものは、憎らしいほど本物に似ている。けれど。
「叔父様は、一昨年の冬に右の手首を痛めましてね。以来、終いの跳ねの角度が、浅くなりましたの。この署名の跳ねは——その『浅い』ほうですわ。二年前の日付の紙に、今の叔父様の癖で、署名がされています」
「二年前の紙に、今の手が署名している、ということか」
「ええ。お写しになった方は、『今の』叔父様の署名しかご存じなかったのでしょうね。偽の紙で執行を止めた者は、本物の紙で裁かれる——先日の仰せの通りになりそうですわ」
部屋の隅では、ミルテが写しの束と格闘していた。執務記録、暦、届け出の控え。十四の見習いに任せるには気の遠くなる量だけれど、本人が「わたしにもやらせてください」と譲らなかったのだ。
(三日前までは、頁をめくる手つきも危なっかしかったのに)
今は違う。一枚ごとに日付を声に出さず唱え、指を折って確かめている。ベンノ仕込みの、記録の読み方だった。
その手が、ふいに止まった。
ミルテが、椅子を鳴らして立ち上がる。
「ユスティーナ様、これ……! 日付が、変です!」
差し出されたのは、公証院の執務記録の写し。十四の見習いは頬を紅潮させ、震える指で一行を示した。
「合意書の日付の日——この日、公証院は閉まってます! 聖アルボスの祭日で休務だって、執務記録に……!」
「……まあ」
わたしは思わず、声を立てて笑ってしまった。
「閉まっている院で公証なさったのね。偽物をお作りの方は、暦までは調べなかったと見えますわ」
「よく見つけた」
ライナルト様が短く言うと、ミルテは茹だったように俯いた。ベンノが目尻の皺を深くして、少女の頭に軽く手を置く。三日三晩、写しの山に埋もれた甲斐があったというものだ。
「紙、墨、署名、暦。綻びは四つ。——けれど、どれも『疑わしい』止まりですの」
わたしは道具を一つずつ検分箱に納め、最後に、黒檀の柄の印章を手に取った。お父様から譲られた、わたしの検めの道具。蝋の押し目の深さを、これで比べる。
「向こうは言うでしょう。紙は後から書き直した、墨は切らしていた、署名の癖は偶々だ、と。一つずつなら、言い逃れができてしまう」
「では、息の根を止める一手は」
「正本、ですわ」
わたしは顔を上げた。
「真正な合意書ならば、公証院の原本庫に正本が納められているはず。両家の合意ほどの紙が、原本庫にないなど、あり得ませんもの。——なければ、その紙は生まれた瞬間から偽物ですの」
「ならば、場を設ける」
ライナルト様は卓上の鈴を鳴らし、現れた書記官に短く命じた。
「執行局長権限で、公開検分を布告する。両家当主と公証院長の立会いのもと、衆目の前で原本庫の記録とこの合意書を突き合わせる。逃げ道も言い逃れも、その場では利かん」
公開検分——執行局長のみが布告できる、公開の場での検め。そこで偽と断ぜられた紙は、二度と表を歩けない。
「よろしいのですか。原本庫まで開くとなれば、院の面目にも障りましょうに」
「面目で執行は止まらん。偽の紙で執行を止めた者は、本物の紙で裁かれる。——言ったはずだ」
相変わらずの事務口調。けれどその声は、心なしか、ほんの半歩だけ温度が高い気がした。(この方なりに、お怒りなのかもしれませんわね。紙を、道具のように扱われたことに)
「日取りは」
「三日後だ」
「三日後、ですわね」
わたしは黒檀の印章を、胸元でひとつ握り込んだ。(お父様。あなたの娘は、教わった通りに数えましたわ。小さな本当を、四つ)
ベンノは帳面を抱え直し、ミルテは写しの束をきつく胸に抱いている。
「お嬢様。三日ありますれば、古い記録をもう一巡り、浚っておきましょう」
「わたし、写しをもう一度、全部見直します! まだ何か、あるかもしれませんから!」
「ええ。——お願いしますわね、おふたりとも」
窓の外で、夕暮れの鐘が鳴った。決戦の日取りが決まった夕べは、不思議なほど静かで——不思議なほど、心が浮き立っていた。
「では——原本と、突き合わせましょう」
三日後、公証院。原本庫の扉の前で。
お読みいただきありがとうございます。綻びは四つ、そして決定打は原本庫に。
次回、いよいよ公開検分。偽の紙の生まれた場所が、衆目の前で暴かれます。
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