第7話:二枚目の契約書
公証院の検分室は、審問室よりもずっと狭い。長卓が一つ、燭台が四つ。そして、中央に——その紙は、あった。
羊皮紙、一枚。バルシュミーデ家が「執行の停止を求める」と申し立てて、公証院に持ち込んだ、二枚目の契約書。
「検分を始める」
ライナルト様の声は、いつもどおり抑揚がない。けれど半年も隣で紙を検めていれば、分かるようになる。今日の声は、いつもより半音、低い。
立会人が、紙の表題を読み上げた。
「『婚約解消に関する相互免除の合意書』。——本合意をもって、先の婚約契約書第十七条の定めにかかわらず、婚約解消の際の違約は、両家これを相互に免除する」
(……は?)
「日付は、二年前の初冬。婚約契約書の調印の、翌月。署名は、バルシュミーデ侯爵、ならびに——ヴェッセル法伯、オイゲン卿。両家当主。印章も、両家のものが押されている」
検分室が、しんとした。
つまり、こういう主張だ。第十七条は、調印のひと月後に、当主同士の合意でこっそり無効にされていた。だから違約金十万ターレルも、銀鉱山の担保も、根拠がない。執行は誤りである——。
「ヴェッセル家側、検分を」
「……拝見します」
わたしは長卓に歩み寄り、手袋を嵌めて、その紙を取り上げた。
一目で分かった。これは、偽物だ。
わたしはヴェッセル家の紙をすべて書いてきた。こんな合意書は起草していないし、存在すら聞いたことがない。だいたい、第十七条はわたしが、自分の身ひとつを守るために編んだ条項だ。それを捨てる紙が、わたしの知らないところで生まれるはずがない。
(わたしが書いていない紙が、わたしの家の印を押して、そこにある。……これほど、腹の立つことがあるかしら。)
けれど。
検めるほどに、指先が冷えていった。
羊皮紙は、二年は寝かせた古い鞣し。継ぎも漉き直しもない。インクは鉄と没食子の正しい配合で、褪せ方にむらがない。昨日今日に書いて焙った紙なら、必ずどこかに焦りが出る。——出ていない。
「筆跡の照合を」わたしは、立会人に願い出た。「当主オイゲン卿の署名の見本と」
登録簿が運ばれ、拡大鏡の下で、二つの署名が並べられた。叔父様の、癖の強い署名の跳ね。終いの一画で、羽根筆を一度浮かせてから落とす、あの独特の間。
「……一致、と言わざるを得ません。少なくとも、筆跡において疑う根拠は」
(写している。筆の速さまで。……叔父様の署名した紙を、山ほど見た手だわ。)
そして封蝋。ヴェッセル家の印章の像が、欠けひとつなく、そこにあった。
(……できすぎだわ。市場の偽造書きの仕事じゃない。)
「ユスティーナ嘱託。所見は」
「偽物です」
わたしは、断言した。向かいで侯爵家の代訴人が、待ってましたとばかりに笑う。
「ほう! 根拠は? まさか『わたしは知らない』ではありますまいな。ご令嬢が家中の紙をすべて知っていると、誰が証明できます?」
「この合意書には、起草者の検め印がありません」
「当主同士が直に取り交わした合意書に、起草者などおらぬ。よって検め印も要らぬ——公証院の作法どおりだ。そうでしょう、立会人殿?」
立会人は、気まずそうに頷いた。
(……そう。そこまで、分かっていて作ってある。)
検め印。わたしがいちばん強く「わたしの紙」を証明できる、あの小さな印。この紙は、検め印の要らない形式を、わざわざ選んで作られている。わたしの得物を、先回りして封じるために。
「筆跡も印章も本物、形式も適法。『偽物だ』と仰るなら、ヴェッセル家側が証しを立てられよ。——できないなら、第十七条は二年前に死んでいた。執行こそが、誤りだったのです!」
代訴人の声が、検分室に響いた。わたしは、反論の紙を、一枚も持っていなかった。
公証院の裁定は、その日のうちに下りた。
「本合意書の真偽の検分が了するまで、婚約契約書第十七条の執行を、一時停止する。グランベルク銀鉱山の封札は、これを解く」
「異議を申し立てます。せめて封札の維持を——」
「嘱託。規程は知っているはずだ」ライナルト様が、静かに遮った。「真偽の争いが立った紙で、執行局は財を縛れない。……解け」
その声が、誰より苦かったことを、わたしだけが知っている。
封札が、剥がされる。三日かけて貼ったものが、一枚の紙で、剥がされる。灰色の官服の執行官が、自分の貼った札を自分の手で剥がすところを、わたしは目を逸らさずに見ていた。逸らしたら、負けだと思った。
退出の廊下で、クレメンス様が待っていた。久しぶりに見る元婚約者様は、実に晴れやかな顔をしていらした。
「残念だったな、ユスティーナ! 紙、紙、紙と偉そうに——その紙とやらに、今度はお前が裁かれる番だ。父上が言っていたぞ。格下の小娘の紙遊びも、これで終わりだと」
「……左様でございますか」
(あなた、その合意書がどこから湧いたのか、考えたことはあって? ないでしょうね。あなたは今日も、読まずに勝った気でいるのだもの。)
わたしは一礼して、通り過ぎた。歯の噛みしめ方だけは、扇の陰に隠して。
その夜、ヴェッセル家の書庫に帰ると、ミルテが涙目で飛びついてきた。
「お嬢様! 封札が剥がされたって、市場でみんなが! ひどい、あんなにお嬢様が正しかったのに、なんで……!」
「泣かないの、ミルテ。剥がされたのは封札で、条項ではないわ。停止は停止。取り消しではありませんもの」
ベンノ爺は、暖炉の前で、白いものの増えた眉を寄せていた。
「お嬢様。当主様の署名を写せるほどの手となると……ヴェッセル家の紙がまとまって出入りした場所は、この書庫と、あとは」
「ええ。公証院だけ」
わたしたちは、しばらく黙って、火の爆ぜる音を聞いていた。ミルテが淹れてくれた茶は、いつもより少し、渋かった。
(怒りなさい、ユスティーナ。でも、怒りで紙は読めない。……頭は、冷たく。)
翌朝。執行局の詰め所に上がると、ライナルト様は窓辺に立っていた。
「悔しいか」
「……はい。とても」
「俺もだ」
灰青の目は、夕暮れの王都を見たまま、動かない。
「執行は、止まった。だが、終わってはいない。——偽の紙で執行を止めた者は、本物の紙で裁かれる」
「殿下。わたし、一つだけ拾ってまいりました」
わたしは、検分の間に写し取った封蝋の押し目の図を、卓に広げた。
「ヴェッセル家の封蝋。像は完璧です。ですが押し目の縁——左肩だけ、わずかに深く沈んでいます。蝋が冷めきる一拍前に押す、公証院の作法で押されて、なお左肩が沈む。この癖、覚えがございます」
「……あの、偽の印影か」
「はい。同じ癖。同じ温度。同じ手です」
(市井の偽造書きは、公証院の押し方なんて知らない。この紙を作った手は、院の作法を——内側から、知っている。)
「必ず暴く。だが、執行局が動くには、証しが要る」ライナルト様は、ようやくこちらを向いた。「嘱託。次の一手は」
「決まっております。偽物が『二年前の紙』を名乗るなら——二年前の、本物と突き合わせるだけ。公証院の原本庫に、参りましょう」
(この蝋の押し目。……院の中の手だわ。)
原本は、嘘を吐かない。吐かないはず、だった——そのときまでは。
お読みいただきありがとうございます。第7話は、敵の反撃の回でした。検め印の要らない形式を選んで作られた「二枚目の契約書」、そして剥がされる封札。
それでも、押し目の癖だけは隠せません。次回、ユスティーナは原本庫へ。最後の一行が、少しだけ不穏です。
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