第6話:大公殿下は、条文がお好き
契約執行局の廊下は、静かだった。
すれ違う官吏たちは皆、書類を抱えて足早で、局長室の扉の前だけ、心持ち歩みが速くなる。「氷の執行官」「あの部屋で笑った者はいない」——待合で耳にした囁きを思い出しながら、わたしはその扉を叩いた。
(さて。氷のお部屋とやらを、拝見いたしましょう。)
通された局長執務室は、噂にたがわず、飾り気というものが一切なかった。
三方の壁を埋める書架。寸分の乱れなく並ぶ綴じ帳。机の上には書類の山と、小さな天秤がひとつ。
その机の向こうで、ライナルト・フォン・エーベルヴァイン大公が、わたしの差し出した紙を読んでいる。
「——以上が、検めの結果でございます。工房の証文に押されていた取引相手の印は、公証院の登録簿の押し型と、印面の傷の位置が三箇所、食い違っておりました。似せて彫られた、別物の印です」
「結論は」
「偽造印章が、実在いたします。それも、素人の手慰みではございません。登録簿の押し型を見られる者でなければ、ここまでは似せられませんもの」
わたしは、綴じた検認調書を机に置いた。嘱託検認人として執行局に出す、初めての正式な報告だった。
大公は、最後の一枚まで目を通し——それきり、動かなくなった。
灰青の目が、紙のどこでもない場所を見ている。
(……あら。)
初めて見るお顔だった。裁定を読み上げる氷の顔でも、書類を検める事務の顔でもない。強いて言うなら——古い傷を、暗がりで指でなぞっているような。
「エーベルヴァイン様?」
「……失礼した」
「報告は以上ですわ。続きがあるとすれば、そちらのお顔のほうかと存じますけれど」
沈黙。暖炉の火が、小さく爆ぜた。
やがて大公は、机の一点を見つめたまま、口を開いた。
「——十年前。俺は執行局に入って二年目の、平の執行官だった」
「はい」
「金貸しから、執行の申立てがあった。相手は街道沿いの、小さな織物商だ。借用証は正規の書式。公証院の副本とも一致した。条項は明快。疑う理由が、どこにもなかった」
声は、いつもの事務口調のままだった。だからこそ、聞いていられた。
「俺は執行を認めて、署名した。店には封札が貼られ、織機は競りに掛けられ、一家は散り散りになった。——借用証が偽造だと判ったのは、二年後だ。証文も、副本も、印章も、全部が偽物だった」
「…………」
「紙が偽と判っても、戻るものは何もなかった。主人は北の鉱山町で死んだと聞いた。執行官は紙に従う。それが正しさのはずだった。だが、その紙が偽物だったら——執行は、暴力だ。……俺は、それをやった」
わたしは、掛ける言葉を探さなかった。この方はいま、慰めではなく、検めを求めている。そんな気がしたから。
「以来、決めている。情も、心証も、俺自身の目分量も、一切信じない。信じるのは、真正と検められた条文だけだ。条項が、すべてだ。……そう思わなければ、やってこられなかった」
(……この方の無表情は、冷たいのではないわ。)
(凍らせて、しまってあるのよ。二度と、間違えないように。)
「執行の文書にご署名なさる前、殿下は必ず、一拍おかれますね」
灰青の目が、初めてわたしを見た。
「……気づいていたか」
「検認人ですもの。人さまの手元を拝見するのが、仕事でございます」
「あの一拍で、毎回、同じことを確かめている。この紙は本物か。あの織物商の店先を、忘れていないか。——それだけだ」
それから大公は、机の上の検認調書に、そっと手を置いた。壊れ物のように。
「あなたの調書は、揺らがない。傷の位置が三箇所と書くなら、三箇所の写し絵が付いている。押し型の控えがあり、突き合わせの手順まで書いてある。……あなたの紙なら、俺は迷わず執行できる。それが、どれほど得難いことか」
息が、一瞬、詰まった。
(……いけないわ。これは業務のご評価。この方の賛辞は、いつだって業務のご評価よ。)
なのに、目の奥が熱い。わたしは、膝の上で指を組み直した。
「……わたしの紙は、十年間、名無しでございました」
「名無し?」
「父が職を追われてからの十年、ヴェッセル家に来る契約はすべて、わたしが起草して、叔父の名義で世に出て参りましたの。褒め言葉も、ご指名も、みんな名義人のもの。誰も、紙の向こうのわたしを見ない。——それが当たり前でしたわ」
父の失脚のことは、それ以上言わなかった。原本を失くした咎、と院の記録にはある。わたしはいまでも、信じていないけれど。
「ですから、その。迷わない、と言っていただけるのは。紙の向こうを、見てくださる方は。……初めて、です」
語尾が、我ながら情けなく萎んだ。慇懃なわたしは、どこへ行ったのかしら。
「……俺は、読んでいた」
「え?」
「名の無いころから、あなたの紙を読んでいた。執行で一度も揉めたことのない起草者が、ヴェッセル家にいると。誰が書くのかと、長く思っていた。——それだけは、言っておく」
妙な符合だと、思った。偽物に欺かれた十年と、本物を名乗れなかった十年。この方の欠けた場所と、わたしの欠けた場所は、ちょうど——
(——やめておきましょう。その先は、まだ、条文にできないわ。)
大公殿下も、何か言いかけて、やめた気配があった。暖炉の火だけが、爆ぜている。
扉が叩かれたのは、そのときだった。
「し、失礼しますっ。書記室からお裾分けです! 蜂蜜の焼き菓子です!」
ミルテだった。盆を掲げて入ってきて、大公の前で、ぴたりと固まる。
「あの……局長様の、ぶんも……あります、けど……」
恐る恐る差し出された皿を、大公は、執行文書のように両手で受け取った。
「——受理する」
「じゅ、受理っ!?」
それから几帳面にひとつ齧り、咀嚼し、長い検分の間を置いて、真顔で言った。
「……職務に支障のない甘さだ」
「殿下。世間ではそれを『おいしい』と申しますのよ」
「そうか。では、そのように訂正する」
ミルテは真っ赤になって退出した。廊下から「局長様が召し上がった……!」と小さな歓声。わたしは笑いを噛み殺すために、蜂蜜の焼き菓子をひとつ必要とした。
「——本題に戻る」
皿を書類の邪魔にならない位置へ几帳面に除けて、大公は、いつもの声で言った。
「偽造印章の一件、契約執行局の正規の調べとして立件する。検認は、嘱託検認人ユスティーナ・フォン・ヴェッセル。指揮は、執行局長たる俺が執る。——つまり」
「つまり?」
「二人で追う、ということだ。異存は」
「ございませんわ」
わたしは、淑女の礼をした。
大公は立件の指図書をその場で書き上げ、封蝋を落とした。蜜色の蝋がほどよく冷めるのを待って、印章を、まっすぐに下ろす。それから羽根筆を執り、署名の前に——一拍。
この紙は、本物か。
(ええ、殿下。本物ですとも。なにしろ、検めたのはわたしですもの。)
署名が終わるのを見届けて、わたしは思った。偽物に欺かれた十年と、名無しだった十年。その両方の落とし前を、これからつけに参りましょう、と。
執務室の扉が、荒々しく叩かれたのは、その直後だった。転がり込んできた官吏が、息も継がずに叫ぶ。
「局長! バルシュミーデ侯爵家より、執行停止の申立てが! あわせて公証院に——『こちらが本物』と称する、新たな婚約契約書が提出されました!」
お読みいただきありがとうございます。
冷酷と噂の執行官殿下が凍らせてしまってあった、十年前の話。署名の前の一拍には、理由がありました。なお、焼き菓子は「受理」されたそうです。
協働の約束の直後に、「本物」と称する二枚目の契約書。次話から、敵の反撃が始まります。
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