第5話:その印は、誰の手で押されたか
契約執行局の三階に、検認室と呼ばれる細長い部屋がある。
北向きの窓に、傾いだ書見台。文書を検めるには影の出にくい北の光がいちばんいい——というのが、この部屋を設えた誰かの見識らしい。嘱託検認人として通いはじめて、わたしはこの部屋が早くも気に入っていた。
紙と、蝋と、古いインクの匂い。ヴェッセル家の書庫と、同じ匂いがする。
「ユスティーナ様、お持ちしました! フォークト商会の印が押された証書、綴りから三通です!」
ミルテが、頬を上気させて駆け込んでくる。十四歳の見習い書記は、廊下を走るなと三度言っても走る。
「ありがとう。でも走らないの。紙が風で泣きます」
「あっ、はい! ……泣くんですか、紙って」
「泣きますとも。埃を吸って、端がめくれて。——さ、並べましょう」
書見台に、三通を並べる。右と左に、フォークト商会が別件で交わした証書がふた通。そして真ん中に、例の一通——ハンネス親方の工房の、あの契約書。
(この押し目。どこかで見た気がする、と思った。……あれから三日、寝ても覚めても、これだもの。今日こそ確かめるわ。)
「ミルテ。あなた、印章を押したことは?」
「練習でなら……見習い用の練習印ですけど」
「では、押してごらんなさい」
練習用の蝋を垂らし、押させてみる。ミルテが息を詰めて、ぎゅ、と押した。
「見て。右の下が、深い」
「ほんとだ……! まっすぐ押したつもりなのに」
「あなたは右利きで、押すとき体がすこし右へ傾くから。——印は、手で押すものです。そして手には、癖がある。寒い朝はすこし浅く、急いだ日はすこし斜めに。それでも、深いところはいつも深い。持ち主が変わらないかぎり、押し目の癖は変わりません」
わたしは、右と左の証書の封蝋を、指の腹でそっとなぞった。
「この二通。フォークト商会の印は、左肩が深い。爪の先でなぞると、段になっているのが判るでしょう」
ミルテが、おそるおそる封蝋に触れる。
「……ほんとだ。左の上だけ、崖みたいになってます」
「では、真ん中の一通」
ミルテの指が、蝋の上を往復した。一度、二度、三度。
「…………平ら、です。どこも、おんなじ深さ」
「そう。——癖が、ない」
(本物の印は、癖で押される。偽物の印は——技で押される。)
しかも、この蝋の色艶。縁は割れず、像は流れず。蝋の温度が下がりきる一拍前——わたしが父に叩き込まれた、いちばん難しい頃合いで押されている。素人の悪戯ではない。玄人の、それも相当な手だ。
「ユスティーナ様。それって、つまり……」
「まだ、判りません。商会が印を彫り直した、ということもあり得ますから。——ミルテ、綴りをもう二年ぶん。日付を順に並べます」
半刻後。書見台の上には、九通の証書が日付の順に並んでいた。
左上の深い押し目と、平らな押し目。それは、古いものから新しいものへ移り変わっているのではなかった。同じ月の中で、交じり合っていた。彫り直しなら、こうはならない。
「……二つ、あるんですね。同じ印が」
ミルテの声が、小さくなった。わたしは頷いた。
「フォークト商会の印章が、この世に二つある。一つは商会の手の中に。——もう一つは、誰とも知れない者の手の中に」
北向きの部屋が、急に寒くなった気がした。
その日の夕刻、わたしは押し目の写し取りを持って、ヴェッセル家の書庫に戻った。
「爺や。あなたの六十年に、聞きたいことがあるの」
ベンノ爺は老眼鏡を上げ下げしながら、長いこと写しを睨んでいた。それから何も言わずに、湯気の立つ杯をわたしの手に押しつけた。
「お嬢様。年寄りの言うことを、二つだけ」
「ええ」
「一つ。これを押した者は、わたくしよりも長く、紙の傍で生きてきた者です。二つ。——夜道と、この件には、深入りなさいますな」
「あら。二つ目は、紙の話ではないわね」
「紙の話ですとも。偽の印を彫る手間というものは、偽の印で稼ぐ当てがなければ、誰も掛けません。……つまりこの印は、もう働いておるということです。どこかで、何枚も。人知れず」
杯の湯気の向こうで、爺やの目は笑っていなかった。
翌朝。執行局の廊下で局長を捉まえて、わたしは短く上申した。
「検認済みの証書に一通、偽印の疑いがございます」
「根拠は」
「同じ印章の押し目に、癖が二種類。蝋の扱いは玄人です」
ライナルト様の灰青の目が、ほんの一拍、わたしの上で止まった。
「書面で上げろ。写しは残すな。原本はわたしの管の下で封をする。——他言は無用だ」
「承知いたしました」
(他言無用、と来たわ。……この方も、何か嫌な当たりをつけていらっしゃるのかしら。それとも、ただの癖かしら。)
昼下がり、検認室に戻ると、ミルテが妙にそわそわしていた。
「あの、ユスティーナ様。書記部屋で、変な噂を聞いてしまって……。バルシュミーデ家の若様が、あちこちの夜会で言って回ってるって。『あの執行は覆る。じきに判る』って。それも、負け惜しみっていうより、その……本気で、楽しそうに」
「あら。楽しそうに、ねえ」
わたしは、笑ってみせた。ミルテを安心させるための笑いだったけれど、胸の奥のほうで、何かが軋んだ音を立てた。
(覆る? 執行審まで通った執行が? どうやって——紙もなしに。)
その答えは、思ったより早く、向こうからやってきた。
帰り道だった。
執行局の門を出たところに、見覚えのある馬車が停まっていた。バルシュミーデ家の紋。ただし車体の艶は以前より曇り、馬は二頭から一頭に減っている。
「ユスティーナ」
クレメンス様だった。頬がこけ、目だけが妙に光っている。封札の貼られた鉱山と、十万ターレルの取り立てがこの二月で彼から削り取ったのは、どうやら贅肉だけではなかったらしい。
「ごきげんよう、クレメンス様。すこしお痩せになりまして?」
「……相変わらず、可愛げのない女だ」
「ええ。可愛げでしたら、金十万ターレルほど、そちらへお貸ししたままですので」
彼は、嗤った。以前の、癇癪まじりの嗤いではなかった。それがすこし、嫌だった。
「強がっていられるのも今のうちだ。なあ、ユスティーナ。お前のご自慢の紙な——あれは、無効だ」
「執行審で決着のついた話ですわ」
「執行審? 偽物を検めて、何の決着になる」
(——偽物?)
「教えてやるよ。お前が後生大事に証明してみせたあの婚約契約書こそ、まがい物だったのさ。紙切れ一枚で、この俺を——いいや、もういい。すぐに判る。覚えていろ」
馬車に乗り込みながら、彼は振り向いて、はっきりと言った。
「本物の契約書は、別にあるんだよ」
車輪の音が遠ざかっても、わたしは門の前から動けなかった。
負け惜しみ。妄言。そう切って捨てるのは簡単だった——昨日までなら。
(偽の印で、偽の契約書を。……まさか、ね。でも、もしそれが本当にできる手が、この王都にあるのなら。)
北風が、往来の埃を巻き上げていく。
(あの完璧な押し目の主は、次は——わたしの紙を、押すつもり?)
お読みいただきありがとうございます。
押し目の癖——本物の印は癖で押され、偽物の印は技で押される。ユスティーナがついに、偽造印章の存在に辿り着きました。そして門前のクレメンスの捨て台詞、「本物の契約書は、別にある」。
点と点が、嫌なかたちで繋がりはじめます。次回、大公殿下の出番です。
ブックマーク・評価で応援いただけると、とても励みになります。




