第4話:紙に泣く人、紙に救われる人
「依頼したい仕事がある」——そう言って書庫に現れた大公殿下は、勧めた椅子に、当然のような顔でお座りになった。氷の彫像が、継ぎの当たった古い座布団の上にいる。妙な眺めだった。
「単刀直入に言う。執行局の嘱託検認人になってほしい」
「……しょくたく、けんにんにん」
「執行の現場は、偽の紙と、穴だらけの紙で溢れている。局の官吏は印と様式までは検められるが、紙の癖までは読めない。真贋を見抜ける目が要る」
大公は、灰青の目でわたしをまっすぐ見た。
「条項が、すべてだ。情ではなく、紙に従う。——だから、正しい紙が要る。執行審での、あの検め方。あれは、良かった」
(この方の賛辞は、業務評価の形でしか出てこないのね。)
「お言葉ですが、殿下。わたしは執行審でお家をひとつ沈めたばかりの、悪名高い令嬢ですのよ」
「悪名は執行の妨げにならない。目の良し悪しだけを見ている」
横で、ベンノ爺が咳払いをした。
「恐れながら殿下。お嬢様を、小役人の使い走りになさるおつもりですかな」
「使い走りにする気なら、俺が使い走りに来ない」
……なるほど。正論だわ。
大公は懐から、折り畳んだ紙を出した。嘱託の契約書。わたしは受け取って、最初の行から署名欄まで、たっぷり時間をかけて読んだ。読み終えてから、一箇所だけ、指で押さえる。
「第八条、『検認の結果に執行局は従う』。——ここに『検認人は理由を書面で示す』と、一行加えてくださいませ。目は、理由を言えてこそ目ですもの」
灰青の目が、すこしだけ動いた。
「その直しは、いい」
わたしは署名し、黒檀の印章を押した。この十年、叔父の屋敷で「紙の虫」と呼ばれて飼い殺されてきたわたしの、初めての、外の仕事。
(お父様。わたしの名前の仕事が、来たわ。)
三日後。契約執行局の詰所の隅に、わたしの机ができた。
最初の来客を連れてきたのは、公証院のお仕着せを着た、小さな見習い書記だった。歳は十四、五。ミルテ、と名乗った。
「あの、検認人さま。お取り次ぎです。その……正式の筋じゃなくて。門前で、三日も待っているひとが、いて」
連れられて来たのは、日に焼けた四十がらみの男だった。金物工房の親方で、ハンネスと言った。ごつい手で、布に包んだ紙を、壊れ物みたいに抱えている。
「お役人がたには門前払いされやした。けど、執行局に紙へめっぽう強いお方が入ったと聞いて……おれは字ぃはろくに読めねえが、こいつが、うちの店の命綱で」
差し出されたのは、たった二枚の売買契約書だった。フォークト商会へ、蝶番と錠前、合わせて三百を納める約定。
「品は納めた。全部でさ。なのに商会は『注文と違う品は受け取ってねえ』の一点張りで、代金の金八十ターレルを半年も払わねえ。うちはもう、職人に渡す銭もねえんだ」
わたしは紙を検めた。……ひどい。品定めの条もなければ、支払いの期日もない。穴だらけ。強い側が「言った言わない」で押し切るために作られたような紙。
(読めない人に、こういう紙を握らせるのね。)
でも。
「親方。納めのとき、商会の荷倉で、木札を割りませんでした?」
「へ? あ……ああ、割符でやすか。荷倉番が木札をぱきっと割って、片っぽをおれに」
割符。一枚の木札を二つに割り、木目と割れ口を突き合わせて証しにする。字が読めなくても、手触りで嘘の分かる、いちばん古い紙の親戚。
「その片割れ、ございます?」
親方は懐から、麻紐に通した木札を三枚出した。納めた回数と、同じ数。
「では、第五条をご覧くださいませ。『納めの証しは、商会荷倉の割符をもって足る』。——この一文、商会が自分で書き入れたものです。偽の納品を言い立てられないための、用心でしょうけれど」
わたしは、少しだけ笑ってしまった。
「紙というものはね、親方。書いた者の思惑どおりには、働いてくれませんの。割符が三枚合えば、三度の納めはこの契約書自身が認めます。『受け取っていない』は、商会自身の条項が許しません。受け取った品の代金は、第二条のとおり『品と引き換え』——とうに、支払いのときは過ぎておりますわ」
わたしはその場で検認の書き付けを起こし、理由を書き連ね、黒檀の印章を押した。執行局の印が隣に並ぶと、二枚きりの頼りない紙が、急に背筋を伸ばしたように見えた。
五日後。フォークト商会は、割符の突き合わせの席でひと言も返せず、金八十ターレルを耳を揃えて支払った。
報せを受けた親方は、詰所の土間に膝をつきそうになりながら、何度も頭を下げた。
「紙なんてもんは、字の読める強え連中の道具だと、ずっと思って……」
「逆ですわ、親方」
わたしは、三枚の割符を布に包んで返した。
「紙は、強い者の道具ではありません。正しく書けば、弱い者を守る盾になる。……今度からは、割符と一緒に、紙もわたしのところへ。——納める前に、ですわよ」
親方が帰ったあとも、ミルテはまだ土間に立っていた。目が、ランプみたいに光っている。
「あの、わたし……字が綺麗なだけで公証院に拾われた孤児で、写すことしか、できなくて。でも、今の、見てて……あの、紙の読み方を教えてください! 字を写すだけじゃなくて、意味の分かる書記に、なりたいんです!」
「美しい字で嘘を写せば、美しい嘘が増えるだけ、ですものね」
わたしは、空いていた隣の椅子を、指で示した。
「いいわ。明日から、読みなさい。写すのは、そのあと」
ミルテが跳ねるように一礼して、駆けていく。
わたしは机に戻り、返す前のフォークト商会の契約書を、もう一度だけ手に取った。末尾の商会印。検めのついでに何気なく目をやった、その押し目に——指が、止まった。
縁の、欠け方。像の、わずかな流れ。
(この押し目。……どこかで、見た気がする。)
気のせいなら、それでいい。けれど、わたしの目は、こういうときに限って、気のせいだったことがないのだ。
お読みいただきありがとうございます。
第4話は、嘱託検認人ユスティーナの初仕事でした。三枚の割符が、二枚の穴だらけの紙を盾に変えるお話。そして最後の「押し目の違和感」が、次のお話への入口です。
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