第3話:契約は、涙より正直です
執行審は、公証院の石造りの審問室で開かれた。
高い天井。壁一面の書架。中央の長卓に、問題の婚約契約書——今度は公証院の原本庫から出された、正本が置かれている。
審問席に、執行局長ライナルト・フォン・エーベルヴァイン大公。左右に執行局の官吏と、公証院の立会人。向かいに、バルシュミーデ侯爵家の親子と、雇われの代訴人が三人。
そして、わたし。ヴェッセル家からは、わたし一人だった。叔父は「勝手に婚約を破棄された間抜けな娘の尻拭いなど知らん」と、屋敷から出もしなかった。
(結構よ。……この場に、ヴェッセル家の紙を語れる人間は、わたしだけだもの。)
「開廷する」大公の声には、今日も抑揚がない。「議題は一つ。バルシュミーデ家の申し入れによる婚約解消に伴い、婚約契約書第十七条の執行を認めるか、否か」
「異議がある!」
代訴人の筆頭が、立ち上がった。恰幅のいい、声の大きな男。
「そもそも当該契約書は、無効の疑いが濃厚である! なぜならば——起草名義人であるヴェッセル法伯オイゲン卿は、こう証言しておられる。『わしはあんな条項を書いた覚えはない』と!」
審問室が、ざわめいた。
(……ああ、叔父様。出てはこないくせに、足だけは引っ張るのね。)
「名義人が起草を否認している以上、この契約書は出所不明の文書! 署名の際にも条項の説明はなかった! よって錯誤による署名であり、無効!」
代訴人は、勝ち誇って着席した。クレメンスが、隣で何度も頷いている。
大公は、眉ひとつ動かさなかった。
「ヴェッセル家側、反論は」
「ございます」
わたしは、立ち上がった。
「起草名義人が書いた覚えがないのは、当然です。——この契約書を起草したのは、名義人ではなく、わたしですから」
ざわ、と傍聴の席が揺れた。代訴人が、鼻で笑う。
「ご令嬢が? これはこれは。……都合のいい証言だ。では聞くが、それを証明できますかな? 『わたしが書きました』と言うだけなら、誰にでもできる」
「ええ、言うだけなら」
わたしは、長卓の正本に歩み寄り、大公に一礼した。
「執行局長様。正本の検めの許可を」
「許可する」
「ありがとう存じます。……では皆さま、第九条をご覧くださいませ。地代の算定条項です。ここに『別紙第二目録に定める基準による』とあります」
わたしは、頁も見ずに、続けた。
「別紙第二目録は全十四項。第七項だけ、字送りがほかより半字詰まっております。理由は、写字の際にわたしが行を数え違え、削り直して詰めたから。羊皮紙は削ると毛羽立ちますので、裏から見れば、第七項の位置にだけ、光が透ける薄い筋があるはずです」
立会人が、慌てて別紙をめくり、裏から燭台の光に透かした。
「——…………ある。たしかに、第七項の位置に、削りの筋が」
「続けます。第十七条の違約金額『金十万ターレル』。この数字の根拠は、契約当時のバルシュミーデ家の年間収入の二年分。算定の下敷きにした同家の身代の調べ書きが、ヴェッセル家の書庫の、南棚の三段目に綴じてあります。表紙の綴じ紐は、青。わたしは調べ書きの綴じ紐を、必ず青にしますので」
「それから、封蝋。ヴェッセル家の印を、わたしは蝋の温度が下がりきる一拍前に押します。父の教えです。冷めてから押すと縁が割れ、熱いうちに押すと像が流れる。——正本の封蝋の縁を、ご覧ください。割れも流れもない、いちばん綺麗な押し目のはずです」
審問室は、もう、静まり返っていた。
立会人が封蝋を検め、無言で頷く。書庫へ走った官吏が、青い綴じ紐の調べ書きを抱えて戻ってくる。
わたしは、最後に、懐から小さな包みを出した。
黒檀の印章。父ゲルハルトから、譲られたもの。
「そして、これが何よりの証しですが——本契約書の起草者の手控えとして、公証院の慣例どおり、末尾の余白に検め印が打たれています。針の先ほどの、小さな印が。皆さま、お気づきにならなかったでしょう。名義人の大印の、影に隠れるように打つものですから」
「その検め印と、この黒檀の印章の印面を、突き合わせてくださいませ」
立会人が、拡大鏡を出した。長い、長い沈黙。
「……一致します。寸分違わず。この検め印は、この黒檀の印章によるものです」
「その印章は、先代法伯ゲルハルト卿が娘に譲ったもの。譲渡の記録は公証院の登録簿にございます。十年前の日付で」
わたしは、審問席に向き直った。
「以上です。起草者しか知り得ない削りの筋。算定の下敷きの在処。封蝋の押し方。そして、検め印。——この契約書を書いたのは、わたし、ユスティーナ・フォン・ヴェッセルです」
代訴人たちは、三人とも、黙り込んでいた。
クレメンスだけが、まだ諦めきれずに、声を絞り出した。
「だ、だが……説明は、なかった! 俺は、条項の説明を受けていない! 騙し討ちだ、こんなもの……!」
「クレメンス様」
わたしは、静かに彼を見た。
「二年前の調印の日。わたし、申し上げましたわ。『どうぞ、お目通しのうえ、ご不明の条項があればお尋ねください』と。あなたは何と仰ったか、覚えていらして?」
「…………」
「『長い。紙のことは紙の好きな者に任せる』——そう仰って、三十秒で署名なさいました。あの日のことは、調印の立会記録に、公証人の手で残っております。読み上げましょうか」
「……っ」
「わたしを騙したとお思いなら、それは違います。あなたを裁いているのは、わたしではありません。あなたが読まずに署名した紙が、署名どおりの約束を、果たせと言っているだけ。——契約は、涙より正直ですの」
大公が、審問席で、小さく息を吐いた。あれは、笑ったのだと思う。たぶん、この人なりに。
「——執行局の裁定を下す」
氷の声が、審問室に響いた。
「当該契約書は真正。起草者は明らか。署名は有効。錯誤の主張は、立会記録により退ける。よって——第十七条にもとづき、違約金十万ターレルの支払い、およびグランベルク銀鉱山採掘権の担保執行を、認める」
木槌が、鳴った。
クレメンスが、椅子に崩れ落ちた。侯爵は青い顔で立ち上がり、「執行局長、話し合いの余地というものが」と縋ったが、大公は一瞥もしなかった。
「執行官は、契約と話し合わない。条項が、すべてだ」
三日後、バルシュミーデ家の鉱山事務所の扉に、契約執行局の封札が貼られた——という報せを、わたしは薬缶の湯が沸くのを待ちながら、ベンノ爺の読み上げで聞いた。
王都の片隅、ヴェッセル家の古い書庫。わたしの、紙の城。
「お嬢様。それで……これから、どうなさいます」
「そうねえ」
わたしは、黒檀の印章を、インク壺の隣にそっと置いた。
(お父様。わたし、初めて、自分の名前で紙を証明したわ。)
窓の外で、夕暮れの鐘が鳴っている。婚約者を失い、実家には居場所もなく、社交界は今ごろわたしの噂で持ちきりだろう。「恐ろしい令嬢」「近づいてはいけない」——。
でも、不思議なくらい、心は凪いでいた。
扉を叩く音がしたのは、そのときだった。
ベンノ爺が応対に出て、すぐに、妙な顔で戻ってきた。
「お嬢様。……執行局長、エーベルヴァイン大公殿下が、お見えです。『依頼したい仕事がある』と」
お読みいただきありがとうございます。
削りの筋、青い綴じ紐、封蝋の押し目、そして検め印——起草者にしか語れない証明、いかがでしたか。第十七条は無事に執行され、銀鉱山に封札が貼られました。ここまでが、即効のざまぁ。本命の遅効は、これからじわじわ効いてまいります。
そして扉の向こうには、条文がお好きな大公殿下。「依頼したい仕事」とは。
ブックマーク・評価で応援いただけると、とても励みになります。




