第2話:執行官は、笑わない
契約執行局。
その名を聞いて、平静でいられる貴族は、この国には少ない。
王家直轄。担うのは、契約の検認と、執行——つまり、取り立てと差し押さえ。彼らの黒い制服が門をくぐった家は、三日のうちに封札が貼られる、と社交界では囁かれる。
そしてその頂点に立つのが。
「契約執行局長、ライナルト・フォン・エーベルヴァインである」
黒衣の一団の先頭で、長身の男が、名乗った。
エーベルヴァイン大公。王族傍系にして、「執行の剣」。情け容赦なく家を潰す冷酷な執行官——というのが、夜会でわたしが百回は聞いた評判だった。
なるほどと思う。たしかに笑わない人だ。灰青の目は湖の氷のようで、声には抑揚というものがほとんどない。
「夜会の場での騒ぎと聞き、検認に来た。……婚約解消の申し入れがあったというのは、事実か」
「じ、事実ではあるが……その、これは家同士の話で執行局が出てくるような」
クレメンスの声は、もう最初の勢いを失っていた。
「契約に執行局が出る。当然のことだ」
大公は、それだけ言って、わたしに目を向けた。
「契約書は」
「こちらに。写しですが、公証院の認証つきです。原本は公証院の原本庫に」
わたしは綴りを差し出した。
大公は、白い手袋のまま受け取り、その場で頁を繰りはじめた。一枚。二枚。三枚。
広間じゅうが、息を詰めて見守っている。祭りの続きを期待する顔、バルシュミーデ家の顔色を窺う顔。ロゼッタは、いつの間にか、クレメンスから半歩、離れて立っていた。
(さあ。……検めてくださいませ、執行局長様。)
わたしは、胸の内だけで、少しだけ緊張していた。
自信はある。あの契約書は、わたしの二年前の仕事のなかでも、いちばん丁寧に編んだ一枚だ。定義は隙なく、条項の繋がりは滑らかに、担保の設定は判例のどれとも矛盾しないように。
けれど検めるのは「執行の剣」。杜撰な紙なら一瞥で突き返すという、あの大公なのだ。
頁を繰る音だけが続いた。
やがてその音が止まった。
大公は、第十七条の頁を開いたまま、じっと動かなくなった。氷の目が、条文の上を、二度、三度、往復する。
「……ほう」
声が漏れた。
周囲の黒服の部下たちが、わずかに目を見交わした。あとで知ったことだけれど、執行局長が検認の場で声を漏らすのは、雪が降るより珍しいらしい。
「解消条項に履行保証。担保の特定に、評価額の算定基準。……催告の手順まで、先回りして書いてある」
大公は、頁をめくる速さを、むしろ緩めた。惜しむように一条ずつ。
「定義条項に、穴がない。第十七条は第二十一条を呼び、第二十一条は別紙の目録を呼ぶ。どこから争っても、必ず本条に戻る作りだ。……蜘蛛の巣だな。美しい」
(……美しい?)
わたしはまばたきをした。
二年間、この契約書について、誰かに何かを言われたことなど、一度もなかった。署名したクレメンスも、両家の当主も、誰も、読みもしなかったのだから。
それを、この人はいま、蜘蛛の巣と呼んだ。美しいと。
「エ、エーベルヴァイン公」クレメンスが、上ずった声を上げた。「そ、その契約は無効だ! 私は騙された! そんな条項があるなんて、誰も——」
「署名はあなたのものか」
「……は?」
「末尾の署名と印章は、あなたのものかと聞いている」
「そ、そうだが、しかし読んで——」
「読まずに署名したと」
大公は、初めて、契約書から顔を上げた。灰青の目が、クレメンスを見る。責めるでもなく、蔑むでもなく、ただ事実を確認する目。それが、いっそう怖かったのだと思う。クレメンスは、二歩、後ずさった。
「バルシュミーデ卿。契約は、読まなかった者を守らない。……執行局は婚約解消の意思表示があったことを、この場の全員を証人として確認した。第十七条にもとづく執行の可否は、三日ののち、執行審にて検める」
大公は綴りを閉じた。
そしてなぜだか、もう一度だけ表紙を撫でるように見てから、わたしへ視線を移した。
「ヴェッセル家のご令嬢」
「はい」
「この契約書の起草者を、ご存じか。ヴェッセル法伯の名義だが——先代が失脚されたのは十年前。この紙は、二年前のものだ」
(……気づくのね。そこに。)
心臓がひとつ跳ねた。
名義は叔父のもの。慣例では、当主名義の起草物は当主のものだ。誰も疑いすらしなかった。この人以外は。
「執行審までに伺いたい。執行局は、起草者への確認を要する。——それに」
大公は、そこで初めて、ほんのわずかに、言い淀んだ。事務口調の氷に、髪一筋ほどの、ひびが入った。
「……個人的にも聞きたいことがある。この起草者の紙を私は、これまでに三度、執行で扱った。三度とも一度も揉めなかった。争いようがないほど、正しく書かれていたからだ」
「執行官として、これほど得難い書き手はいない。……この条項を書いたのは誰だ」
シャンデリアの光の下で、氷の目が、まっすぐにわたしを見ていた。
わたしは扇を開いた。頬が、少しだけ熱かったからだ。侮られるのには慣れている。けれど正面から仕事を評されるのには——まるで、慣れていなかった。
「……執行審の場でお答えいたしますわ」
冷徹と噂の執行官大公、契約書を検めて第一声が「美しい」でした。この方、条文がお好きです。
そして彼はもう気づいています。名義と、起草の腕が、合っていないことに。次話、執行審。ユスティーナが「書いたのはわたしです」を公の場で証明する、勝負の回です。
初対面の第一声が「美しい」で笑ってしまった方、ブックマークで続きまでお付き合いください。




