第1話:第十七条を、ご確認ください
「地味な文書係」と婚約破棄された令嬢が、自分の書いた婚約契約書の違約条項を、その場で執行します。剣も魔法もいりません。武器は、署名と封蝋の残る一枚の紙。読まずに署名した人たちが紙に裁かれていく、遅効性の爽快ざまぁ。冷徹と噂の執行官大公の溺愛つき。
夜会の大広間で、婚約者が声を張り上げたとき、わたしが最初に考えたのは、彼の家の契約書のことだった。
「ユスティーナ・フォン・ヴェッセル! お前との婚約を、破棄する!」
シャンデリアの光。止まる楽団。振り返る招待客たち。
クレメンス・フォン・バルシュミーデ侯爵令息は、この瞬間のために夜会を選んだのだろう。隣には、男爵令嬢のロゼッタ。薔薇色のドレスに、勝ち誇った微笑み。
(……ああ。この方、本当に、読んでいないのだわ。)
わたしは、扇の内で、静かに息をついた。
「理由を、伺っても?」
「分からないのか? お前のような地味な文書係、侯爵家の格に釣り合わんのだよ」
クレメンスは、芝居がかった仕草で、ロゼッタの肩を抱いた。
「見ろ、ロゼッタを。華やかで、素直で、可愛げがある。お前ときたら、夜会でもインクの染みた指で、隅で書き付けばかり。侯爵家に要るのは妻であって、書記ではない」
くすくすと、笑いが広間にさざめいた。
地味な文書係。インクの染みた指。
どれも、事実だ。わたしは社交より羊皮紙が好きで、舞踏より起草が得意で、夜会の隅で頭の中の条文を整理している方が、ずっと落ち着く。
ヴェッセル法伯爵家は、代々、公証人の家系。父が失脚してからは叔父が家を継ぎ、わたしは「文書係」として、家に来る契約書の下働きをしてきた——表向きは。
(この人たちは、知らない。あなたの家とうちの家が交わした婚約契約書。あの十八枚の羊皮紙を、誰が起草したのか。)
書いたのは、わたしだ。
一条から、最終条まで。インクの一滴まで、全部。
「返事はどうした」クレメンスが、苛立たしげに顎を上げた。「泣いて縋るなら、今のうちだぞ」
「まあ」
わたしは、扇を閉じた。
「泣く必要が、どこにございますの?」
広間が、わずかに、ざわめいた。捨てられた令嬢の返答としては、たしかに、行儀が悪かったかもしれない。
「承知いたしました、クレメンス様。婚約破棄、お受けいたします。あなたのお心が既に他の方にあるのなら、紙の上だけの婚約に、意味はございませんもの」
「……ず、ずいぶんと、物分かりがいいじゃないか」
拍子抜けした顔。ロゼッタも、用意していたはずの台詞——泣き喚くわたしを慰める役どころ——を失って、まばたきをしている。
「ええ。わたくし、話の分からない女ではありませんの。……ただ」
わたしは、一歩、前へ出た。
「ひとつだけ、事務のお手続きが残っておりますので、この場でご確認いただけますか。皆さまが証人になってくださる、ちょうどよい機会ですし」
「手続き……?」
「婚約契約書ですわ」
わたしは、侍従に目配せして、持参していた書類箱を運ばせた。旅行鞄ほどもある、樫の箱。中から、封蝋のついた羊皮紙の綴りを取り出す。
ヴェッセル家とバルシュミーデ家の印章が、末尾に並んで押された、正式な写し。
「両家の婚約契約書。公証院の認証つき。……クレメンス様も、ご署名なさいましたでしょう? 二年前の、秋に」
「し、したが……それがどうした。破棄するのだから、そんな紙はもう」
「ええ、破棄なさるのでしょう? ですから——」
わたしは、頁を繰った。指が、迷いなく、その一枚で止まる。
自分で書いたのだ。どこに何があるかなど、目を閉じていても分かる。
「——第十七条を、ご確認ください」
しん、と広間が静まった。
「だい、じゅうなな……?」
「読み上げますわね」
わたしは、淑女の礼法どおりの、よく通る声で読んだ。
「『甲乙いずれか一方の事由により本婚約を解消する場合、解消を申し入れた側は、相手方に対し、違約の償いとして金十万ターレルを支払い、あわせて第二十一条に定める担保物件をもってその履行を保証する』」
頁を、もう一枚。
「第二十一条。『担保物件は、バルシュミーデ家の保有するグランベルク銀鉱山の採掘権とする』」
顔を上げる。
「あなたはいま、皆さまの前で、ご自身の事由により婚約の解消を申し入れられました。——おめでとうございます、クレメンス様。第十七条が、たったいま、効力を持ちましたわ」
広間の空気が、変わった。
さっきまでくすくすと笑っていた招待客たちが、扇の陰で、ひそひそと囁き交わしはじめる。十万ターレル。銀鉱山。あの家に、払えるのか——。
「な……っ、ば、馬鹿な! そんな条項、聞いていない!」
「お聞きになっていなくても、ご署名なさっています」
「読んで、いない……!」
「まあ」
わたしは、心から気の毒そうに、眉を下げてみせた。
「読まずに、署名なさったの?」
クレメンスの顔が、赤から白へ変わっていく。ロゼッタが「クレメンス様……?」と、不安げに袖を引いた。
「む、無効だ! こんなもの、認めん! だいたい、お前ごときが契約の何を——文書係の分際で——」
「その文書係に、格の違いを教えてくださったのは、あなたですわ」
わたしは、契約書の綴りを、胸に抱え直した。
インクの染みた指。ええ、染みておりますとも。この指は、二年前、あなたの家の身代を調べ上げ、万一のときにヴェッセル家が損をしないよう、十八枚の羊皮紙に、それはそれは丁寧に、条項を編み込んだ指ですもの。
(お父様は言ったわ。——紙は、書いた人間の心根まで残す、と。)
(そしてね、クレメンス様。読まずに署名した紙ほど、怖いものは、この世にないのよ。)
「無効かどうかは、あなたが決めることではございません。契約の効力を検め、執行するのは——」
わたしは、広間の入口へ、視線を向けた。
噂というのは、足が早い。夜会の騒ぎは、もう館の外まで届いていたらしい。開かれた扉の向こうから、黒い制服の一団が、靴音を揃えて入ってくるところだった。
先頭に立つのは、長身の男。飾りのない黒衣に、王家の紋。感情の読めない、灰青の目。
招待客の誰かが、ひっ、と喉を鳴らした。
「——契約執行局」
「王国で、あの方たちのお仕事ですわ」
わたしは、綴りの最後の頁を開いたまま、微笑んだ。
「契約は、涙より正直ですの。……どうぞ、よい夜を」
お読みいただきありがとうございます。白石アリアです。
読まずに署名した婚約契約書——それを書いたのは、捨てられた令嬢本人でした。第十七条は、もう動き出しています。
次話、乗り込んできた契約執行局。その長である「冷徹」と噂の大公が、この契約書を一目見て、まず口にした言葉とは。
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