第59話:要石は、戻らない
王命による家宅の検めは、三日後だった。鍵の預かりが権利でないと定まれば、預かりの根拠が問われる。問われれば、十年前に持ち出された正本の行方も問われる。
モルゲンシュテルン家の庫から、それは出てきた。油紙に包まれ、木箱に納められ、家の庫のいちばん奥に。蓋を開けると油と埃の匂いがしたと、検めの官吏が書き添えていた。
燃やされてはいなかった。
わたしはその報せを、詰所で受け取った。窓の外で、正午の鐘が鳴っていた。
「……やはり」
「なぜ、燃やさなかったんでしょう」
ミルテが訊いた。
「燃やせば、鍵を預かる根拠も、灰になるからよ」
わたしは、湯を飲んだ。
「あの一枚には、鍵の預かりを許す条も書いてあるの。だから、無くしてはいけない。……けれど、読まれてもいけない。だから、抜いて、隠した」
「めんどくさい人ですね」
「そうね。ほんとうに」
正本は、公証院へ戻された。運んだのは執行局の者で、受入所の係が一枚ずつ書き留めた。品の名。時刻。運んだ者の名。十年前の晩に書かれたのと、同じ書式で。
棚十七へ、百二十年前の場所へ。ヴィルデローゼ伯爵家とハルツ男爵家の取り決めは、絶えた家の紙の棚へ、正しく移された。
十年ぶりに、目録と庫の中身が一致した。
モルゲンシュテルン侯爵アルブレヒトの処分は、王の裁きに委ねられた。鍵の預かりは、王家へ返上。集めた立会席の譲渡は、いずれも「権利ならざる格式を対価とした」として、王命により無効。三家へ戻された。
家名は、残った。わたしは、それでいいと思った。
この人は、一人も殺していない。一枚も奪っていない。差し出させただけだ。差し出させる条項を書いた罪は、家を潰すほどではない。潰したいと思う気持ちは、ある。父の十年を思えば、いくらでも。
けれど公証人が私情で紙を書き始めたら、この二年、わたしがやってきたことは全部、嘘になる。
「侯爵様に、お目にかかれますか」
王宮の一室で、わたしは最後に一度だけ、その人と向き合った。アルブレヒトは、前より小さく見えた。上等だが地味な服も指輪一つも、変わっていないのに。
「……ヴェッセル卿の娘」
「はい」
「あの男は、十年前、この話をわたしに持ってきた。棚十七の細工を暴くと」
「はい」
「わたしは、取引を持ちかけた。名誉だけ取れ、庫の奥は探るな、と。……あの男は、断った」
アルブレヒトは、窓の外を見た。
「断った男が、十年、田舎で薪を割った。……あなたは、断って、勝った。何が違ったのだと思う」
わたしは、少し考えた。考えて、正直に答えた。
「わたくしには、味方がおりました」
侯爵が、顔だけをこちらへ向けた。
「父には、おりませんでした。一人でこの部屋へ来て、一人で断って、一人で嵌められました。……わたくしには、執行局長がおり、老書記がおり、弟子がおり、彫り師がおり、金物の親方がおり、パン屋のおかみさんがおりました」
わたしは、頭を下げた。
「侯爵様には、どなたが、いらっしゃいましたか」
アルブレヒトは、口を開かなかった。答えられなかったのだと、後から思った。
ケルナーは、家を去った。処分ではなく、自分から。行方は、誰も知らない。詰所の戸口の長椅子に絹の背の姿が現れることは、二度となかった。
叔父オイゲンとクレメンスが、揃って詰所へ来たのは、その翌週だった。叔父は、バルツァー商会との残りをようやく畳んだと報告に来た。取り戻せた千八百ターレルで、ヴェッセル家の地代の穴を埋め、あとは身の丈まで畳んだのだという。
「屋敷は、売った」
「はい」
「使用人も、半分に減らした。……お前が繕っていた紙の量が、いまごろ分かった。わし一人では、あの半分も回せん」
叔父は、そのまま長く、頭を下げていた。
「戻ってくれとは、もう言わん。言う顔がない」
「はい」
わたしは、否定も肯定もしなかった。要石は、戻らない。
抜けた穴は抜けたまま、その家の身の丈に合う形へ縮んでいく。それが、いちばん正しい直り方だ。
クレメンスは口入れ屋の下働きから、証文の下読みに上がったと言った。
「読めるようになった、とは言わん」
彼は、机の上を指さすような仕草をした。
「読まずに捺すと死ぬ、ってことだけは、分かる」
「上出来ですわ」
「うるさい」
二人が帰ったあと、ミルテがそっと訊いた。
「ユスティーナ様。あの人たち、許したんですか」
「許してないわ」
「え」
「許すのは、わたしの仕事ではないもの」
わたしは、書きかけの紙を、指の腹で平らに伸ばした。
「わたしの仕事は、正しい紙を書くこと。許すかどうかは、あの人たちが、これから読む紙が決めるの」
その日の午後、わたしは、公証院へ一通の申請を出した。
——ミルテ、登録補助者として、これを登録す。監督、公証人ユスティーナ・フォン・ヴェッセル。
ミルテは申請の写しを見て、しばらく口を開けていた。
「あの。ユスティーナ様。これ」
「あなたの検め印を、登録するの。針先ほどの、小さな印よ」
わたしはその子の手に、新しい印章を置いた。黒檀ではない。柘植の、小さな、まだ新しい印。
「いつか、あなたが、誰かの紙を守る日のために」
ミルテは印章を両手で握りしめて、盛大にひどい泣き方をした。弟子入りの一筆を書いたときと、まったく同じ泣き方だった。
その晩、もう一通だけ書いた。明日読み上げる条の写しだ。控えると申し出たのはわたしで、受理しなかったのは、あの人だった。……ずっと、守っていたのは、わたしのほうだった。
宛名は「執行局長殿」と書きかけて、やめた。
ライナルト様、と書いた。
封をして、誰にも預けず、自分で執行局へ置いてきた。返事は、要らなかった。
翌朝は婚姻条約の、調印の日だった。
後始末の回です。
正本は、燃やされていませんでした。燃やせば、鍵を預かる根拠も灰になるからです。無くしてはいけない、けれど読まれてもいけない——第五十二話の問いの答えが、ここに出ます。
アルブレヒトの家は、残しました。この人は一人も殺していないし、一枚も奪っていない。差し出させただけです。潰したい気持ちはあっても、私情で紙を書き始めたら全部が嘘になる、というのがユスティーナの線引きです。
「侯爵様には、どなたが、いらっしゃいましたか」。父が一人で負けて、娘が勝った理由を、この一言だけにしました。
そして、ミルテの登録。第三十一話で交わした一筆から始まった弟子入りが、針先ほどの検め印にたどり着きます。同じ泣き方をするのが、この子のいいところです。




