第60話:紙が、人を守る国へ
調印の朝は、よく晴れていた。大広間の卓に、二通。王家の控えと、フェルゼン辺境伯家の控え。
前文には、「先例に倣い」の一文が、そのまま置いてある。落とさなかった。
落とせば、あの家を縛る条も落ちる。だから、残した。相手が入れさせた一文を、相手が思ったのとは逆に効かせる。それが、いちばん静かな決着だった。
わたしは、条項を最後に一度、頭から検めた。第一条から、第三十一条まで。卓の上の羊皮紙は、まだ墨の匂いがした。
その中に当初の下書きには無かった条が、三つある。わたしが足したものだ。
「公証人」
アマーリエ殿下が、卓の向こうから、わたしを呼んだ。
「第二十四条を、もう一度、読め」
「はい」
わたしは、読み上げた。
「——輿入れの後、王女はその名において、婚家の外に一通の副本を留め置くことを得。留め置く先は、王女みずから、これを選ぶ」
殿下はしばらく、その一行を見ていた。
「百二十年前の姫も、これをしたのか」
「条項には、ございませんでした。……ご自分の意思で、なさいました」
「条項が無くとも、したのか」
「はい。だからこそ、百二十年、残りました」
殿下はふ、と息を吐いた。笑ったのだと思う。
「では、わたくしは、条項があるほうがよい。次の代の娘が、意思を持たずに済むように」
「……はい」
「そなた、名を書いたな。第一条の前に」
「起草者として、末尾に検め印を」
「そうではない。ここだ」
殿下が指したのは、第二十四条の欄外だった。小さく、註が入れてある。
——この条は、百二十年前、ヴィッテ家に副本を託された姫君の先例に倣う。
「ヴィッテ家とは」
「王都の西で、パン竈を守っておられるご一家でございます。字を、お読みになりません」
殿下は、目を丸くした。それからこの日いちばん、はっきりと笑った。
「よい。残せ。……その家の名が、王家の紙に、百二十年ぶりに載るのだな」
わたしは、深く頭を下げた。調印が終わった。最後に、起草者の検め印を打つ。
わたしは外套の内から、黒檀の印章を取り出した。父の譲り物。柄の底板が二重になっていて、その奥に、もう一枚あった印。十年前の夜に、父が娘だけに読める形で数を残した、あの印章。
末尾の余白に、針先ほどの検め印を打った。十年、隠れるために打った。半年前、名乗るために打った。
今日は、残すために打つ。
顔を上げると、広間の隅で、ライナルトが立っていた。査問は先月、終わっている。十年前の執行について、新たな事実は一つも出なかった。出るはずがなかった。奏上した側の家が、そのころには、それどころではなくなっていたからだ。
執行局長の椅子は、そのままだ。婚儀の話は、調印の翌日に決まった。
決まったというより、思い出したという感じだった。あの夜から、わたしたちはずっと契約を結んだままで、式のことは一度も話していなかった。
ベンノに叱られた。四十年の老書記は「順序が逆でございます」と言って、その日のうちに段取りを組んだ。
婚儀は、その半月後だった。派手なことはどちらも好まなかった。公証院の小さな礼拝堂で身内だけを呼んだ。
父ゲルハルトが、北の庵から出てきた。十年ぶりに、上等な服を着ていた。ベンノは式のあいだじゅう、窓のほうを向いていた。
ミルテは、はじめから終わりまで泣いていた。柘植の印章を、握りしめたまま。
ハンネスとエーミルは、揃って窮屈そうにしていた。マレーネは、いちばん大きなパンを焼いてきた。ヴァント氏は、招かれたことに恐縮しきっていた。彫り師オトマルは、木の札を一つ、彫ってきてくれた。
二人の名が、並べて彫ってあった。銭は、要らないと言われた。
「誓いの言葉は」
司祭に問われて、ライナルトは、少し考えた。
「……条項が、すべてだ」
参列した全員が、笑った。わたしは扇の内で、笑いをこらえきれなかった。
「では、第一条を」
わたしはこの人の隣で、言った。
「互いの紙を、生涯いちばん丁寧に読むこと」
ライナルトが、頷いた。
「解約条項は、ない」
式のあと、公証院から使いが来た。わたしは封を切って、読んで、しばらく黙っていた。
「なんて書いてありました?」
ミルテが、覗き込んでくる。
「……公証院を、建て直せ、と」
「え」
「総裁の椅子が、空いたままなの。ヴァルター師では荷が重い。院則を書き直し、雛形を作り直し、市井の書役を教え直せ、と」
わたしはその紙を、灯にかざした。この二年、わたしが戦ってきたのは、いつも、たった一人の悪い人ではなかった。
雛形だ。誰かが一度うまい文句を思いついて、書役が写し、また写して、十年経てば誰も出どころを知らない。読まれないまま、人を縛り続ける一行。
あれを直さないかぎり、次のエーミルが、次のマレーネが、また出てくる。
封筒には、もう一通、入っていた。こちらは、公証院の紙ではなかった。隣国の紋が捺してある。
——貴国の公証の作法について、教えを請いたい。
わたしはその一行を、二度読んだ。舞台を広げるつもりは、ない。行く気もない。
けれど向こうから来るぶんには、読まねばなるまい。読むのが、公証人の仕事だ。
(お父様。紙は、人を守ります。……けれど紙に載らない人は、まだ、誰も守っていないのですわ。)
(ですから、次は、そちらを。)
窓の外は、よく晴れていた。
わたしは羽根ペンを取って、新しい紙を一枚引き寄せた。
第二部「原本庫の闇」、ここまでです。ここまでお付き合いくださって、ありがとうございました。
前文の「先例に倣い」は、落としませんでした。落とせば、あの家を縛る条も落ちる。相手が入れさせた一文を、相手が思ったのとは逆に効かせて終わる——いちばん静かな決着にしたつもりです。
第二十四条は、ユスティーナが足した条です。百二十年前の姫君が、条項も無いのに自分の意思でやったことを、次の代の娘が意思を持たずに済むように、条項にしました。そして欄外の註に、パン竈の一家の名が、百二十年ぶりに王家の紙へ載ります。
誓いの言葉が「条項が、すべてだ」なのは、この人以外にありえませんでした。
そして最後の二通。雛形を書き直せという下命と、隣国からの照会。ユスティーナがこの二年戦ってきたのは、いつも一人の悪人ではなく、読まれないまま人を縛り続ける一行のほうでした。
紙は人を守る。けれど、紙に載らない人は、まだ誰も守っていない。次の頁で、またお会いしましょう。




