第58話:先例に、倣いましょう
王宮の大広間は二十七年ぶりの公開審問より、まだ広かった。
上座に、王家の方々。アマーリエ殿下はいつもどおり、背だけがまっすぐだった。右に、北辺のフェルゼン辺境伯家の使者たち。無骨な、日焼けした人たちだ。
左に、モルゲンシュテルン侯爵アルブレヒト。その後ろに、ケルナー。中央に、王宮書記官長コンラート。そして、公証院からヴァルター師と記録官。
わたしは、卓の前に立った。卓の上には、白布が二枚。一枚に、ケルナーが差し出した「百二十年前の写し」。もう一枚はまだ、空だった。
「公証人ヴェッセル。申し立てよ」
コンラートの声が、広間に響いた。
「本日は、王家並びにフェルゼン辺境伯家の婚姻の取り決め、その前文に置かれる『先例に倣い』の一文について、先例の真正を検めるために参りました」
わたしは、一礼した。
「まず、確かめさせてくださいませ。侯爵様」
「なんだね」
「前文に『先例に倣い』を入れよとのご意向は、どなたのものでございましょう」
アルブレヒトは、少しも動じなかった。
「わたしだ」
広間が、ざわめいた。
「隠すことではない。百二十年ぶりの降嫁だ。前の例に倣うのが筋だと、王に申し上げた。それだけのことだよ」
「ありがとうございます。記録に、お残しくださいませ」
記録官の羽根ペンが、走った。わたしは、一枚目の白布へ手を伸ばした。
「では、こちらの写しについて。……この検め印は、十年前に彫られた型によるものでございます。彫った職人が、鑿の傷とともに、公証院の検分で証しております。すでに記録されております」
「その話は、済んだはずだ」
アルブレヒトの声から、余裕が抜けた。
「偽であることは認めよう。認めた上で、他に一枚も無い。無ければ、それを使うほかない。……王宮も、そう裁定した」
「はい」
わたしは、頷いた。
「ですから、本日は、別の一枚を持ってまいりました」
わたしは二枚目の白布に、副本を置いた。広間が、静まった。
「王家並びにモルゲンシュテルン侯爵家、婚姻に関する取り決め、副本。……百二十年前の婚儀の翌月、公証院より一通、発行されております。登録簿第五綴、第三巻、第二十二頁」
記録官が、あわてて綴りを繰った。繰って、顔を上げて、頷いた。
「発行先は、ヴィッテ家。当時、姫君附女官を務めた家でございます。備考に、姫君の御意により、と」
わたしは、上座を見た。アマーリエ殿下の背が、ほんのわずかに、動いた。
「以来、百二十年。ヴィッテ家は爵位を失い、王都の西へ移り、いまは、パン竈を守るご一家となっておられます。字をお読みになりません。読めないまま、燃やすなと言い継いで、竈の上の棚に置いてこられました」
息をする音のほかは、何も聞こえなかった。
「検め印を、お改めくださいませ。押し目の左肩は、沈んでおりません。百二十年前の職人の手でございます」
記録官が、拡大鏡を当てた。当てて、しばらくしてから、はっきりと言った。
「……偽の型と、異なります」
「ヴァルター師」
「は、はい」
「羊皮紙の年代、折り癖、墨の滲み。ご検分を」
老公証人は震える手で、しかし丁寧に全部を検めた。そして、顔を上げた。
「……真正である」
わたしは、深く息を吸った。
「では、先例の中身を読み上げます」
わたしは、副本を持ち上げた。
「第九条。この婚姻より生じる家門は、王位の列に加えず」
広間が、ざわりと鳴った。
「第十条。古庫の鍵の預かりは、名誉であって、権利にあらず。永く預かりたるをもって、これを家の権とすることを得ず」
ざわめきが、止まった。わたしは、アルブレヒトのほうを向いた。
この人はまだ、動じていなかった。動じていないふりを、していた。指が椅子の肘掛けを、一度だけ叩いた。
「侯爵様」
「……なんだね」
「先例に倣い、とお入れになるご意向でございましたわね」
わたしは一歩、前に出た。
「倣いましょう」
北辺の使者たちが、顔を見合わせた。
「この副本が、先例でございます。真正と認められました。前文に『先例に倣い』を置けば、この取り決めに書かれた事の理が、今度の婚姻にも引き移ってまいります」
わたしは副本を、コンラートのほうへ向けた。
「すなわち、この王家の婚姻において、古庫の鍵の預かりは、名誉であって権利にあらず。……百二十年前に定められたとおりに」
アルブレヒトの手が、肘掛けから、離れた。
「王家の御慶事のために、先例に倣うべきだと、侯爵様ご自身が王に申し上げられました。記録にございます」
わたしはまっすぐに、その人を見た。
「わたくしは、その通りにいたします」
沈黙は、長かった。北辺の使者の一人が、小さく咳をした。それが、やけに大きく聞こえた。
「……公証人ヴェッセル」
アルブレヒトの声は、まだ穏やかだった。穏やかだったが初めて、少しだけ掠れていた。
「あなたは、わたしが書かせた一文で、わたしを縛るつもりか」
「いいえ」
わたしは、首を振った。
「あなた様が、お書きになったのです。わたくしは、そのとおりに読んでいるだけでございます」
第二部の頂点です。
第一部の第一話で、ユスティーナは自分が起草した契約書の条項で元婚約者を詰ませました。同じ型を、主敵で、いちばん大きな盤の上で、もう一度やります。
「先例に倣い」を入れよと言い出したのは、アルブレヒト自身でした。だから、倣います。倣った先には「鍵の預かりは名誉であって権利にあらず」がある。ユスティーナは何も足していません。相手が書かせた一文を、書かれたとおりに読んだだけです。
そして、それを可能にしたのは、庫でも王命でも免状でもなく、字の読めない家が百二十年、燃やさずに置いてきた一枚でした。
「わたくしが奪うのではありません」——この作品がずっと言い続けてきたことの、いちばん大きな形です。




