第57話:買い上げの申し出
二日後の朝、絹が、パン屋の前に立っていた。わたしがそれを知ったのは、ミルテが息を切らして詰所へ駆け込んできたときだった。
「ユスティーナ様! マレーネ様のとこに、あの家令が」
西の路地まで、走った。装束の裾が邪魔で、二度、踏みそうになった。息が上がって、喉の奥に、鉄の味がした。公証人の装束は、走るようにはできていない。走る用のない人間が着る服だからだ。
黒地に白襟の装束のまま走ったので、道の人が振り返った。もう、隠している場合ではなかった。
店の前に、上等な馬車が停まっていた。路地の幅に、その馬車は明らかに大きすぎた。停めた者は、通行の邪魔になることを考えていない。考えなくてよい暮らしをしている。
ケルナーは粉だらけの店の中で、いつもと同じ姿勢で立っていた。徒弟の椅子にも、市井の土間にも、同じ礼をする人だ。
「おや。公証人どの」
「ケルナー殿」
「ご心配には及びません。商いのお話をしておりました」
マレーネは、卓の向こうで、前掛けを握りしめていた。卓の上に、革の袋が置いてある。紐が解けていて、中身が見えていた。
金貨だ。
「五百ターレル」
ケルナーが、声を落とした。
「この家に伝わる古い紙を、当家がお買い上げしたいと申し上げました。……なにぶん古い紙ですので、傷む前に、しかるべき庫で保管するのが、紙のためでもございましょう」
五百ターレル。このパン屋が、十年働いて手にする額ではない。竈を新しくして、店を建て直して、それでもまだ余る。
安く買い叩きに来たのではない。断りにくい額を、わざわざ選んである。
マレーネは、その袋を見ていなかった。わたしを見ていた。
「マレーネ様」
「……検認人さま」
その呼び方に、わたしは、少し泣きそうになった。
「あたしゃ、字が読めん。読めんけど、二日前に、あんたが読んでくれた」
「はい」
「あれを聞いたあとで、これを売ったら。……お義母さんに、なんて言われるか」
マレーネは、革の袋を、指で押し返した。
「お引き取りを」
ケルナーの表情は、変わらなかった。変わらないまま、袋を懐へ戻した。そして代わりに、一通の書付を卓に置いた。
「では、こちらを」
わたしは、それを取り上げた。読んで、指が冷たくなった。
——動産差押えの予告。
「なんの、権原でございますか」
「レープ殿の債権を、当家が譲り受けました」
レープ。あの金貸しだ。マレーネの亡夫に金四十ターレルを貸し、証文に偽の加筆をして取り立てようとして、わたしに敗れた男。
「あの証文は、加筆を除いて、生きております」
ケルナーは、事実だけを述べた。
「第四条。返済は、竈に火の続くかぎり、実りに応じて月ごとに。……たしかに、マレーネ殿は毎月お納めでございます。ですが、証文は生きている。生きている債権には、担保を求める権がございます」
「担保」
「はい。家財一切」
わたしは、目を閉じた。紙は、燃やされない。買い上げられもしない。
差し押さえられる。
差押えを執行するのは、執行局だ。この書付があの人の机に届けば、あの人は日付から読み、正しくない紙は執行しない。……けれど、査問を待つ執行局長の机にいま紙を積むのは、あの家の思う壺だ。だから、ここで解く。
「家財に、あの紙が含まれると」
「家に代々伝わる品でございましょう。……家財でございます」
わたしは書付を、白布に置いた。置いて、ゆっくりと息を吸った。
この人はいつも、正しいことしか言わない。だから正しくない一点を、探せばいい。
「ケルナー殿。あの検分でわたくしが除いたのは、加筆でございました」
「さようで」
「加筆を除いた第四条は、返済の方法を定めております。……ケルナー殿。第四条を書いたのは、レープ殿でございます」
「存じております」
「なぜ、あの方が、あんな借り手に甘い条を書いたか、お考えになったことは」
ケルナーの眉が、わずかに動いた。
「全額即時の取り立てを、封じるためでございます」
わたしは、続けた。
「あの条は、レープ殿ご自身の盾でした。取り立てが厳しすぎると訴えられたときに、ほら、これほど温情のある条を置いていると示すための。……ですから、あの証文には、担保の条が、一つもございません」
「担保の条が無くとも、債権には」
「院則ではなく、証文の話でございます」
わたしは、顔を上げた。
「担保を定めない証文で、後から家財を押さえるには、借り手の同意が要ります。マレーネ様は、同意なさいますか」
「しないよ」
マレーネが、即答した。ケルナーはしばらく、動かなかった。
それから、深く一礼した。
「……承知いたしました」
絹が、店を出ていく。わたしはその背に、声をかけた。
「ケルナー殿」
絹が、止まった。
「侯爵様は、あなた様を切っておいでです。写しの件は家令の走りすぎだと、わたくしに詫びられました」
「存じております」
振り向かずに、答えが返ってきた。
「……存じております」
絹が、去っていった。わたしはしばらく、その戸口を見ていた。
主に切られても、まだ主のために動く。動いた先で、五百ターレルを断られ、証文の穴を突かれて帰る。
この人が何を持って帰るのかを、わたしは知らない。知らないが、あの家に、それを労う条項が無いことだけは、たしかだった。
その日の夕刻、わたしは王宮へ、公開の検分を請う書面を出した。
庫の中ではなく、王宮の広間で。
北辺の使者も、王女殿下も、侯爵も、いる場所で。
火はつけません。買い上げの申し出と、差押えの予告——どちらも、まっとうな手続きです。
マレーネは、五百ターレルを指で押し返します。字が読めない人が、二日前に読んでもらった内容だけを頼りに、十年分の稼ぎを断ります。「あれを聞いたあとで売ったら、お義母さんになんて言われるか」。
そして第十七話の証文が、思わぬ形で戻ってきます。レープが自分の盾として書いた甘い第四条には、担保の条が一つもありませんでした。悪人が自分を守るために書いた条項が、百年守られてきた紙を守ります。
最後にユスティーナがかけた声に、ケルナーは振り向きませんでした。「存じております」を、二度。




