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婚約破棄? ご自由に。ただし違約条項は執行させていただきます 〜「地味な文書係」と捨てられた令嬢、その婚約契約書を書いたのはわたしです〜  作者: 白石アリア


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第56話:字の読めない人が、守ったもの

 竈の上の棚は、煤で黒くなっていた。マレーネが、踏み台に乗って、いちばん奥から布包みを下ろした。粉と煤の匂いのする、色の落ちた麻布。


「はい。これ」


 あまりに気軽に手渡されたので、わたしは受け取り損ねそうになった。


「マレーネ様。……白布を、敷かせてくださいませ」


「白布? こんな汚いもんに」


「お願いいたします」


 わたしは、店の卓を拭かせてもらい、白布を広げ、手袋をはめた。粉の飛ぶ場所で百年の紙を開くのは、本当はよくない。よくないが、この家から持ち出す前に、この家で開きたかった。


 ミルテが、灯を二つ運んできた。包みを開く。


 麻布は三重になっていた。いちばん外は粉で白く、内側の一枚は、まだ生成りの色を残していた。誰かが、外側だけを何度も取り替えている。


 中から出てきたのは、四つ折りの羊皮紙だった。縁が飴色になっている。折り目の谷に、百年ぶんの埃。虫食いが三か所。裁ち口の毛羽立ち。


 わたしは、それを、ゆっくり広げた。表題が、目に飛び込んできた。


 ——王家並びにモルゲンシュテルン侯爵家、婚姻に関する取り決め、副本。


 息が、止まった。ミルテが、両手で口を押さえた。


「ユスティーナ様、これ」


「……ええ」


 わたしは、条項を追った。第一条から、順に。


 婚儀の日取り。化粧料の額。供の数。ケルナーが持ってきた偽の写しに書いてあった内容と、ここまでは、ほとんど同じだ。


 偽を作った者は、この副本を見ていない。見ていないから、当たり障りのないところは、当時の書式どおりに埋めた。


 わたしは、末尾を先に見た。公証院の副本の検め印。押し目の左肩は、沈んでいなかった。右下が深い。ごくふつうの、右利きの押し方だ。


 百二十年前の職人の手が、そこにある。オトマルが真似たのは、この形だった。真似ても、彫り出しの一鑿目だけは、あの人の癖が出た。


 わたしは、条項の頭へ戻った。そして、第九条。


 ——この婚姻より生じる家門は、王位の列に加えず。


 第十条。


 ——古庫の鍵の預かりは、名誉であって、権利にあらず。永く預かりたるをもって、これを家の権とすることを得ず。


 わたしは、卓に手をついた。父の言葉と、一字一句、同じだった。十年前、この二つを読んで、父は嵌められた。


「マレーネ様」


 声が、掠れた。


「これは、いつから、ここに」


「さあねえ。お義母さんが嫁に来たときには、もう箱に入ってたって言ってたよ。その前は、そのまた前のお義母さんが」


 マレーネは、粉のついた手を前掛けで拭いた。


「代々、女が持たされるんだって。男は仕事で持ち歩くから汚すって」


 わたしは、うつむいた。うつむいて、しばらく、顔を上げられなかった。


 百二十年前、姫君が、自分の側に一通を残した。女官の家へ。その家は爵位を失い、商いもせず、王都の西の路地へ流れて、パン竈を焼くようになった。


 誰も、この紙を読まなかった。読めなかったからだ。


 読めないまま、燃やすなと言い継いで、竈の上の棚に置いてきた。


 百年。


「マレーネ様。……なぜ、燃やさなかったのです」


「燃やせって言われてないからさ」


 あまりにも簡単な答えだった。


「うちの人が死んだとき、金がなくてね。売れるもんは全部売ったよ。指輪も、鍋も。……でも、これは売らんかった。売っていいって、誰にも言われてないから」


 わたしは、白布の上の副本を見た。この国でいちばん立派な庫にあった正本は、十年で消えた。字の読めない家の、煤けた棚にあった副本は、百二十年、残った。


「マレーネ様」


「なんだい」


「これに、何が書いてあるか、お聞きになりますか」


 マレーネは、少し驚いた顔をした。それから、椅子を引いて、座った。


「聞くよ。……百年、うちにあったもんだしね」


 わたしは、読み上げた。第一条から、最後まで。難しい言い回しは、言い換えた。


 マレーネは、途中で二度、聞き返した。読み終えると、しばらく黙っていた。


「じゃあ、なにかい」


「はい」


「うちの棚に、王さまの家の約束が、置いてあったのかい」


「はい」


「煤だらけの棚に」


「はい」


「……はあ」


 マレーネは、前掛けで顔を拭いた。粉が、頬についた。


「お義母さんに、教えてやりたかったねえ」


 わたしは、頭を下げた。白布に、額がつくほど、深く。


「マレーネ様。この紙を、お預かりさせてくださいませ」


「持ってきな」


「いいえ。お預かりするだけです。……これは、あなた様の家のものでございます。誰にも、渡しません」


 わたしは、その場で預り証を書いた。預けた者の名。預かった者の名。品。日付。返す期日。


 書いて、読み上げて、マレーネの前へ置いた。


「ご署名を。……お書きになれないなら、印でも、指の形でも構いません」


「あたし、名前だけは書けるよ」


 マレーネは、少し胸を張った。


「うちの人が、教えてくれたからね。名前だけ」


 粉のついた指で、羽根ペンを握る。ひどく時間をかけて、一画ずつ。わたしは、その署名に、黒檀の印章で検め印を打った。


 百年、この家には紙があった。けれど、この家の名が書かれた紙は、たぶん、これが初めてだった。

 第二部でいちばん書きたかった回です。

 この国でいちばん立派な庫に納められた正本は、十年で消えました。字の読めない家の煤けた棚に置かれた副本は、百二十年、残りました。

 「燃やせって言われてないからさ」。売れるものを全部売った年にも、これは売らなかった。売っていいと誰にも言われていないから——値打ちを知らないまま守り抜いた人の理屈が、制度のどんな仕組みより強かった、という話にしたかったのです。

 ユスティーナは、読み上げます。難しい言い回しを言い換えて、最後まで。百年、この家の誰も知らなかった中身を、この家の人に、最初に渡します。

 「お預かりするだけです。これは、あなた様の家のものでございます」。ここだけは、譲れませんでした。

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