第55話:登録簿の、側から
王都へ戻ったその足で、公証院の登録係へ行った。第五綴、第三巻。
登録係の若い書記は、その番号を二度聞き返した。この綴りを出せと言われたことが、四年勤めて一度も無かったのだという。
革の背が硬くなった、百二十年ぶんの綴りだ。開くと、黴と鉄墨の匂いが、頁の間から立った。副本と写しの発行を記す帳面。誰の求めで、何の写しを、いつ、何通出したか。それだけを、淡々と書き続けてきた紙の山。誰も見ない綴りだ。写しを出したという記録に、何の値打ちもない。
第二十二頁を開いた。頁は、上から二十七行。どの行も同じ形で並んでいる。求めた者の名。文書の表題。通数。日付。
書いた書記は几帳面だが、興味は無かったのだろう。字の大きさが最後まで一定で、どこにも力が入っていない。誰も読み返さないと知りながら、それでも同じ形で書き続ける。この綴りは、そういう人たちが百二十年かけて作ったものだ。
わたしは、指で行を追った。三行目で、指が止まった。
——王家並びにモルゲンシュテルン侯爵家、婚姻に関する取り決め。副本一通、発行。
日付は、婚儀の翌月。百二十年前だ。
「……ミルテ」
「はい」
「発行先を、読んでちょうだい。わたしの目が、信用できないの」
ミルテが、灯を寄せた。
「えっと……ヴィッテ家」
「ヴィッテ」
「はい。ヴィッテ家、当主ヨナス・ヴィッテ」
聞いたことのない名だった。貴族名鑑を持ってこさせた。無い。爵位を持たない家だ。
当時の公証院は、爵位の有無で紙の重さを変えなかったらしい。いまの院なら、こうは書かない。
「なぜ、爵位もない家に、王家の婚姻の副本が」
欄外に、細い字で何か添えてあった。書記が備考を書くのは、後で誰かに訊かれると思ったときだけだ。訊かれないと思えば、書かない。この書記は、この一行だけは訊かれると思った。
わたしは、登録簿の欄外に目を落とした。几帳面な書記が、備考を一行だけ添えていた。
——姫君附女官の家、姫君の御意により。
わたしは、しばらく、その一行を読んでいた。
(——姫君が、ご自分の意思で。)
百二十年前。王家の姫が、臣下の家へ降嫁した。その婚姻の取り決めには、姫君を縛る条項も、婚家を縛る条項も、両方が書かれていた。
姫君は、自分の側にも一通を残そうとした。実家でもなく、婚家でもない場所へ。いちばん近くにいた、女官の家へ。
(……この方も、ご自分の名がどこに載るか、ご存じだったのだわ。)
アマーリエ殿下の、背だけがまっすぐな立ち姿を思い出した。百二十年前にも、口を挟まぬと教えられた娘がいて、その娘は、一通だけ、こっそり自分の側に置いた。
「ミルテ。ヴィッテ家を探します」
けれど、そこからが、動かなかった。貴族名鑑に無い。商業組合の名簿にも無い。教区の帳面を三日繰って、ようやく、七十年前に王都の西へ移った記録が出てきた。
そこで、途切れた。紙で人を追うには、その人が紙に載り続けていなければならない。爵位を失い、商いもせず、ただ暮らしている家は、どこにも載らない。
この十年、わたしは紙で人を救ってきた。救えたのは、紙に載っていた人だけだ。載っていない人のことを、わたしは、考えたことがあっただろうか。
(……お父様。紙は、人を守ります。けれど、紙に載らない人は、誰が守るのでしょう。)
訊きたい相手が、一人だけいた。訊けば、いつもの事務口調で、短い答えが返ってくるはずだった。わたしは羽根ペンを取って、置いた。査問の日取りすら下りない人に、こちらの困りごとを届けるわけにはいかない。
……三日、そればかり、自分に言い聞かせている。
四日目の朝、ベンノが、めずらしく口を挟んだ。
「お嬢様。紙で見つからぬなら、足で探すよりございませんな」
「西の路地は、広うございますわ」
「広うございますが、お嬢様には、あの界隈に知り合いがおいでです」
わたしは、顔を上げた。その日の午後、ミルテを連れて、西の路地へ行った。
マレーネのパン屋は、昼過ぎのいちばん暇な時分だった。マレーネは粉だらけの手を拭いて、椅子を出してくれた。
「ヴィッテ?」
「ご存じありませんか。七十年ほど前に、このあたりへ移ってきた家です」
「七十年前ねえ。あたしが生まれる前だよ」
マレーネは、腕を組んで、しばらく唸った。
「ヴィッテ、ヴィッテ……ああ」
「ご存じですの」
「うちの人の、母方がね。ヴィッテだったよ」
わたしは、椅子の背をつかんだ。つかんでいないと、体が傾きそうだった。
「……マレーネ様の、ご亭主の」
「そうそう。うちの人は、父方の姓だったけどね。母方がヴィッテだって、婚礼のときに聞いた気がするよ。……もう、誰も残っとらんけどねえ」
ミルテが、わたしの袖を、思い切り引いた。
「あの、マレーネ様」
わたしは、なるべく静かな声を出した。
「ご亭主のご実家から、何か、古い紙のようなものを、お預かりではございませんか」
「紙?」
「はい。読めなくても、大事にしてきたようなもので」
マレーネの動きが、止まった。それから、粉のついた手で、口を押さえた。
「……あるよ」
「ございますか」
「あるけどさ。あんなもん、なんの値打ちもないよ」
マレーネは、店の奥へ入っていった。
「うちの人が死んだとき、お義母さんが言ったんだ。これは家のもんだから、燃やすなって。……あたしゃ字が読めんからね。何が書いてあるんだか、いっぺんも分からんまま、竈の上の棚に置きっぱなしだよ」
誰も見ない綴りが、この物語をひっくり返します。第五綴は、写しを出したという記録だけを淡々と書き続けてきた帳面で、何の値打ちもない紙の束です。
百二十年前の姫君は、自分の側にも一通を残しました。実家でもなく、婚家でもない場所へ——いちばん近くにいた女官の家へ。第三十二話でユスティーナがアマーリエ殿下に言った「ご自分の名がどこに載るかを知る」ことを、百二十年前の姫君は、自分でやっていました。
そして、その家の末が、マレーネの亡夫の母方でした。第十七話で救い、第三十四話で噂を運び、第四十二話で彫り師の在処を教えてくれた、字の読めないパン屋の女主人です。
なんの値打ちもない紙が、竈の上の棚に、百年置きっぱなしになっていました。百二十年越しに糸が繋がる形がお好きな方、ブックマークで頂点までご一緒ください。




