第54話:北の庵
底板の、そのまた奥に、板がもう一枚あった。薄い。爪ほどの厚みしかない。十年前のわたしは、覚え書きを見つけた喜びで、そこまで確かめなかった。
小刀の先で押すと、かちりと外れた。中に入っていたのは、紙ではなかった。
細い麻布の切れ端に、墨で、数が書いてある。
——五の三、二十二。
それだけだった。わたしは、その一行を、半刻見ていた。
符牒ではない。父の符牒は、家名と年月と棚番号を組み合わせる形だった。これは、違う。
「ミルテ。荷を作って。三日ぶん」
「え、どちらへ」
「北へ」
北の田舎まで、馬車で二日かかった。最後の半日は道が細くて歩いた。麦の刈り跡が続く風の強い土地だった。
歩きながら、わたしはずっと言い訳を考えていた。父を巻き込まずに済む言い方。読んだかどうかだけ聞いて帰る言い方。名を出さずに済ませる言い方。
どれも、途中で崩れた。結局わたしは、あの家に父をもう一度立たせに行くのだ。言い方をいくら変えても、そこは変わらない。
変わらないことを飾ろうとするのは、依頼人に対していちばんやってはいけないことだった。
庵は、小さかった。屋根の低い、石積みの家。戸口で薪を割っていた老人が、顔を上げた。
「……ユスティーナ」
「お父様」
父ゲルハルトは、斧を置いて、ずいぶん長いあいだ、こちらを見ていた。半月前に王都で会ったときより、顔の色がよかった。名誉が戻ると、人はこんなに変わるのだと思った。
「よく来た。……いや、来るだろうと思っておった」
「なぜ」
「あの底板を、開けたのだろう」
わたしは、麻布を差し出した。父は、それを受け取って、皺を伸ばした。手が、少し震えていた。
「……十年か」
「お父様。これは」
「登録簿の、綴りの番号と、頁だ」
父は、わたしを中へ入れた。狭い部屋に、粗末な卓が一つ。壁に、書きかけの紙が何枚も貼ってある。この人は、隠棲しても、書くことをやめていない。
「あの晩、わしは棚十七を見た」
父は、湯を沸かしながら言った。
「見た、というのは、正しくない。読んだのだ。……あの一枚を、最後まで」
わたしは、息を止めた。
「何が、書いてございました」
「二つ、覚えておる」
父は、指を二本立てた。
「一つ。この婚姻より生じる家門は、王位の列に加えず」
「……はい」
「二つ。古庫の鍵の預かりは、名誉であって、権利にあらず」
湯の沸く音が、部屋にいっぱいになった。わたしは、しばらく動けなかった。
「……それが、あるから」
「そうだ」
父は、湯を注いだ。
「あの一枚が在るかぎり、あの家は、鍵を持っていても、それは名誉にすぎん。名誉は、返せと言われれば返さねばならん。権利ではないからな」
「では、無ければ」
「無ければ、百二十年預かってきた事実だけが残る。事実が長く続けば、人はそれを権利と呼ぶようになる」
わたしは、湯呑みを両手で包んだ。温かかった。
「お父様。なぜ、この二つを、覚え書きに書き残されなかったのです」
父は、しばらく答えなかった。
「書けば、それは、わしが読んだという証しになる」
「……はい」
「わしが読んだと分かれば、わしは消される。消されれば、お前のところへ、印章が届かん」
わたしは、顔を上げた。
「では、この麻布は」
「読んだ、とは書いておらん。ただの数だ。……数だけなら、拾った者にも意味が分からん」
父は、麻布を指で押さえた。
「だが、お前になら分かる。お前は、登録簿の綴り方を知っておる。わしが教えた」
喉が、詰まった。この人は、十年前、消されるかもしれない夜に、娘だけに読める形で、短い一行を残した。
「五の三、二十二」
わたしは、口に出した。
「登録簿、第五綴、第三巻、第二十二頁」
「そうだ」
「そこに、何が」
「わしは、読んでおらん」
父は、初めて、少し笑った。
「読む前に、嵌められた。……だが、あの晩、目録を辿るうちに、そこに何かがあると当たりをつけた。当たりをつけたところで、時間が尽きた」
「では、これは」
「宿題だ。十年、置いておいた」
父は、わたしの手に、麻布を戻した。
「符牒が指しておるのは、条文ではない。番号だ。……ユスティーナ。番号は、物ではないぞ。物の在処でもない」
「……何の、番号ですの」
「それを調べるのが、公証人の仕事だろう」
その晩、わたしは庵に泊まった。父は、わたしが持ってきた市井の証文を、断りもなく読み始めた。読みながら、二度、唸った。
「この竈の一件。息子に残す形にするなら、地面の借り賃の条を先に片づけておかんと、後で揉めるぞ」
「……はい」
「お前は、人を守る条ばかり厚く書く。守る条は、揉める条を消してからでないと効かん」
わたしは、その一言を、書き留めた。十年ぶりに、父から仕事を教わった。
証文を返しながら、父はふと紙とは関係のないことを訊いた。
「あの執行官殿は、達者か」
「……査問を待っておられます。日取りは、まだ」
「待たせておるのは、向こうか。お前か」
わたしは答えられなかった。父はそれ以上訊かず、湯を注ぎ足した。訊かないでいてくれるのが、この人の答えだった。
「お父様」
「なんだ」
「わたくし、あの家の前に、お父様をもう一度立たせに参りました」
「知っておる」
父は、紙から目を上げなかった。
「立つ。……ただし、わしは証しには立てん。十年前に読んだと言えば、なぜそのとき言わなかったと問われる。答えは『言えば消されたから』だが、それは紙に載らん」
「はい」
「載らんことを、載せようとするな。お前は、載ることだけを積め」
帰りの馬車で、わたしは麻布を握りしめていた。登録簿の第五綴は、副本と写しの発行を記す綴りだ。
物ではなく、番号。在処ではなく、番号。
——発行の、番号。
父ゲルハルトの再登場です。第二十九話の再会から半月、名誉の戻った顔で、薪を割っています。
この人が覚え書きに真相を書かなかった理由が、いちばん書きたかったところでした。書けば「読んだ証し」になる。読んだと分かれば消される。消されれば、娘に印章が届かない——だから、娘にしか意味の分からない六文字だけを残しました。
そして「符牒が指しているのは条文ではない、番号だ」。物でもなく、在処でもなく、番号。第五綴は、副本と写しの発行を記す綴りです。
十年寝かせた宿題を、娘が受け取ります。




