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婚約破棄? ご自由に。ただし違約条項は執行させていただきます 〜「地味な文書係」と捨てられた令嬢、その婚約契約書を書いたのはわたしです〜  作者: 白石アリア


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第53話:物証だけでは、書けない

 開扉から三日、わたしは勝った気になっていた。三日目の夕刻に、王宮から書面が来て、その気は消えた。


 ——先例の正本、不在と確認せらる。よって前文は「先例に倣い」を存し、現存する最も確からしき写しをもって、これに充つるものとす。


 わたしはその一行を、三度読んだ。読むたびに、詰所の灯が一つずつ落ちていくような気がした。


「……ミルテ。読んでちょうだい」


「え、あの、はい。……先例に倣い、を、残す。写しを、先例に、充てる」


「そうよね。わたしの目が、おかしいわけではないのね」


 わたしは椅子に、深く沈んだ。勝ったと思った三日が、まるごと無駄になったわけではない。庫は開いた。棚は空だった。それは残る。


 残るのに、効かない。効かない証しほど、書いた者を疲れさせるものはない。庫を開けて、無いことを見せた。写しが偽だと証した。


 それでも、こうなる。なぜなら、御慶事の日取りは動かないからだ。


 北辺の使者はもう王都に入っている。前文は要る。先例は要る。要るのに、正しい先例は無い。


 無いなら、いちばん確からしいものを充てる。いちばん確からしいものは——世に一枚しかない、あの写しだ。


「偽だと、証したのに」


 ミルテの声が、震えていた。


「偽だって、みんなの前で、証したのに!」


「証したわ」


「なのに、なんで使うんですか!」


「他に、無いから」


 わたしは、天井を見た。


「偽である、と、無い、は、違うの。偽だと証しても、それで正しいものが現れるわけではないわ。……偽しか無ければ、人は、偽を使うのよ。日取りが迫っていれば、なおのこと」


 ベンノが、静かに湯を置いた。


「お嬢様。以前にも、同じことがございましたな」


「……ええ」


 バルシュミーデ家が偽の合意書を出してきて、執行が止まったことがあった。あのとき、わたしは偽の綻びを四つ集めて、公開検分で勝った。勝てたのは、原本庫に原本があったからだ。突き合わせる先があったから、偽は偽になった。


 いまは、突き合わせる先が、無い。


「……綻びを、いくら集めても、駄目なのだわ」


 組んだ指に、額を預けた。


「わたしに要るのは、偽の証しではなく、本物なの」


 書面がなければ、公証人は無力。この十年、何百回も言ってきた言葉が、今度は、自分の背中に貼りついている。


 しかも、待っている人がいる。ライナルトの査問は、まだ日取りが下りていない。下りていないということは、向こうがこちらの出方を見ているということだ。わたしがここで止まれば、あの椅子ごと、静かに終わる。


(……わたしが止まると、あの人の椅子が消えるのだわ。)


 二日、わたしは考えた。考えるあいだ、市井の証文を検めた。手を動かしていないと思考が同じところを回る。


 井戸の分担の覚え。屋根の葺き替えの割り前。奉公の口入れの一札。どれも小さくて、どれも誰かの暮らしがかかっている。小さな紙を検めながら、わたしはずっと同じことを考えていた。この国のどこかに、あの一枚は、まだある。


 燃やされていない。持ち出されて、どこかにある。どこかにあるものを探す道と、無くても済ませる道と、二つあって、王宮はもう後のほうへ歩き出している。わたしは、前のほうへ行きたい。行きたいが、道が見えない。


 三日目の朝、湯を飲みながら、ふと、思った。


(——正本を読んだ人は、いないのかしら。)


 十年前より前に、あの一枚を、読んだ人。百二十年、庫の奥にあった紙だ。読んだ者は、ごく少ない。院の総裁と、鍵を預かる家と、あとは。


 わたしは、湯呑みを置いた。置いた手が、止まった。


 ——十年前の冬。父ゲルハルトは、古庫の細工を見つけた。目録の食い違いを見つけただけなら、あの人は「棚十七から一通が抜かれた」としか書けなかったはずだ。


 けれど父は、告発しようとした。目録の食い違いだけで、告発はできない。父ほどの人が、それを知らないわけがない。


(お父様は。……何が抜かれたか、知っていたのだわ。)


 知っていた、ということは。中身を、読んでいる。


 わたしは、立ち上がった。立ち上がってから、また座った。父を、引き出すことになる。


 十年、濡れ衣を着せられて隠棲し、半月前にようやく名誉を取り戻したばかりの人を、また、あの家の前に立たせることになる。あの写しを検めた晩、わたしは、この考えを引き出しにしまった。まだ早い、と言って。いまは。


 ミルテが、そっと、わたしの手元に紙を置いた。書きかけの、市井の証文だった。


「ユスティーナ様。この人、竈の権利を、息子さんに残したいって」


「……ええ」


「それで、思ったんですけど。……残す人って、残す相手が読めるように、残しますよね」


 わたしは、その子を見た。


「読めるように」


「はい。読めない人に残しても、意味ないから」


 黒檀の印章が外套の内で重かった。残す人は、残す相手が読めるように残す。


 この子はたぶん、自分が何を言ったか分かっていない。父は、十年前、わたしに、これを譲った。


 二重底には、符牒の覚え書きが入っていた。抜き取られた正本十七、書き替えられた登録簿九。あれは、細工の地図だった。


 地図は、読んだ。読んで、使った。


(……お父様。まだ、あるのですか。)


 わたしは印章を取り出して、灯にかざした。柄の底板。二重底。十年前に、わたしが自分で開けた場所。


 開けて、覚え書きを取り出して、それきりだった。


 わたしは、小刀を取った。


 そして底板の、そのまた奥を、そっと押した。

庫を開けて勝ったはずが、三日で覆ります。

 「偽である」と「無い」は違う——ここが第二部でいちばん書きたかった理屈でした。偽だと証明しても、正しいものが現れるわけではない。偽しか無ければ、人は偽を使います。日取りが迫っていれば、なおのこと。第一部で勝てたのは、突き合わせる原本が庫にあったからでした。

 そして、ミルテの何気ない一言が扉を開けます。「残す人って、残す相手が読めるように残しますよね」。父ゲルハルトは、目録の食い違いだけで告発しようとしたのではありませんでした。中身を、読んでいます。

 黒檀の印章の、二重底の、そのまた奥。

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