第52話:棚十七
鉄の扉は、思ったより静かに開いた。軋みもしなかった。誰かが、油を差している。開けないはずの扉に、誰かが、ずっと。
中は、冷たく、乾いていた。石壁に沿って、黒い木の棚が並んでいる。羊皮紙と、乾いた蝋と、古い革の匂い。灯を入れると、埃が、ゆっくり舞い上がった。
百二十年、誰も呼吸をしなかった部屋の空気が、いま、わたしたちの肺に入ってくる。
「持ち込むものを、お改めいたします」
受入所の係が、戸口で声を張った。
「灯を三つ。白布を二枚。羽根ペンと墨壺、各一。……以上でよろしいか」
誰も、何も足さなかった。
ケルナーは、両手を軽く広げてみせた。何も持っていない、と示す仕草だった。受入所の係が、その両手を帳面に書き留めた。仕草まで書く係は、めったにいない。頼んでおいてよかったと思った。
わたしは、その手を見なかった。見るまでもない。この人は、袖には入れない。入れるなら、もっと前に、もっと自然な形で運んでいる。だから、外に目を置いた。
「棚十七は、どちらでございましょう」
ヴァルター師が震える指で、奥を差した。いちばん奥の、右から三つ目。
棚は、腰の高さより少し上にあった。手を伸ばせば届く。届く高さに、十年、誰も触れなかったことになっている。わたしたちは、そちらへ歩いた。足音が、石にぶつかって返ってきた。
棚には、番号を彫った真鍮の札がついている。十七。札の縁が、他の棚より磨れていた。指で触れられた回数が、そこだけ多いということだ。百二十年動かないはずの棚が、なぜ、いちばん触られているのか。
わたしはその磨れを、記録官に見せた。記録官は、律儀に書き取った。
中に、羊皮紙の巻いたものが、一つ。たった、一つ。
「お検めを」
記録官が、白布を敷いた。わたしは手袋をして、それを取り出した。
軽かった。思っていたより、ずっと軽かった。
開く。灯を寄せる。表題を読む。
——ヴィルデローゼ伯爵家並びにハルツ男爵家、婚姻に関する取り決め。
誰も、声を出さなかった。わたしは記録官のほうへ、表題を向けた。
「お読みくださいませ」
「……ヴィルデローゼ伯爵家並びにハルツ男爵家、婚姻に関する取り決め」
記録官の声が、部屋に響いた。ヴァント氏が、口を押さえた。クレメンスが、一歩、前に出た。ヴァルター師は、目を閉じていた。
「院の目録には、この棚に、王家並びにモルゲンシュテルン侯爵家の婚姻の取り決めが在る、と記されております」
わたしは、ゆっくりと言った。
「ございません」
石の部屋が、その一言を二度、三度と返した。
「十年前、この棚から一通が抜かれ、代わりに一通が納められました。抜かれたのは王家の取り決め、納められたのが、この、絶えた二家の取り決めでございます。……受入目録のとおりでございました」
「侯爵」
ヴァルター師が、震える声で言った。
「これは、いかなることでございましょうか」
アルブレヒトは、答えなかった。棚を見ていた。空になった棚の、木目のあたりを。
その横で、ケルナーが、静かに言った。
「……庫の管理は、公証院の職にございます。当家は、鍵をお預かりしているのみ。中で何があったかは、当家の与り知らぬところでございます」
わたしは、頷いた。
「はい。ですから、いま、それを申し立てても、意味がございません」
「なんと」
「本日わたくしが証しますのは、一つだけでございます」
わたしは、記録官のほうを向いた。
「棚十七に、王家とモルゲンシュテルン侯爵家の婚姻の取り決めの正本は、存在いたしませんでした。……これで、不在は、事実になりました」
この日まで、わたしの不在の公証は、目録の矛盾から導いた推論だった。いまは、開けて、見た。
「そして、ケルナー殿が差し出された『百二十年前の写し』は、十年前に彫られた型で検め印を押された、偽の紙でございます。……先例は、いま、この国のどこにも、正しい形で存在いたしません」
「では、先例なしで進めればよい」
アルブレヒトが、初めて口を開いた。
「あなたが、そう望んだのだろう。前文から先例に倣いを落とす。……それで、王家の御慶事は調う」
わたしは、その言葉をしばらく聞いていた。穏やかな声だった。この人はいつも穏やかで、いつも、こちらの望みに沿った提案をする。
そして、気づいた。この人はいま、逃げようとしていない。むしろ、そこへ引き込もうとしている。
(——先例が「無い」ことにできれば。……鍵の預かりを縛る一条も、無いことになる。)
背筋が、冷えた。抜いたのは、隠すためではなかった。
無かったことにするためだ。
「侯爵様」
「なんだね」
「一つ、伺わせてくださいませ。……なぜ、燃やさなかったのです」
アルブレヒトの目が、こちらを向いた。初めて、この人の目に、わたしを厄介だと思う色が浮かんだ。
「十年前、抜いた一通を、燃やせばよろしゅうございました。灰にしてしまえば、誰も何も証せません。……なのに、目録には持出しと書かせた。持ち出した、と」
わたしは、空の棚に手を置いた。
「持ち出した者は、燃やしてはいないのですわ」
第二部、三つ目の区切りです。扉が開き、棚十七が空だったことが、推論ではなく事実になりました。
ここでいちばん怖いのは、アルブレヒトが逃げないことです。「先例なしで進めればよい」——ユスティーナが自分で望んだ結論へ、そのまま引き込もうとします。正本を抜いたのは隠すためではなく、無かったことにするためでした。無い条項は、誰も縛れません。
だから最後の問いになります。なぜ燃やさなかったのか。灰にすれば完璧だったのに、わざわざ「持ち出した」と目録に書かせた。
燃やせなかった理由が、次の章の入口です。




