第51話:開かずの間の、前で
院則の付則、第七項。
——家絶えて行使する者なき立会席は、公証院これを預かる。行使を要するときは、免状を有する公証人のうちより、院これを指名す。
わたしはその一行を三度読んで、ヴァルター師のところへ持っていった。老公証人は書面を見て、それから、わたしの顔を見て、また書面を見た。
「……そなたを、指名せよと」
「第九席の譲渡は無効となり、レーヴェ家は絶えております。席は、いま、院が預かっております」
「わしが、指名する」
「はい」
「わしが」
ヴァルター師は羽根ペンを持ったまま、しばらく震えていた。この人をまた、怖い目に遭わせている。分かっていて、頼んでいる。
「ヴァルター師。ご無理でしたら」
「無理だ」
「……はい」
「無理だが、やる」
老人は、判を押した。
「わしはな、公証人になったとき、師匠に言われたのだ。……欠けた紙を、欠けていると書け、と。それだけを、四十年、守れんかった」
判の朱が、にじんでいた。手が震えていたからだ。
「守れんかった四十年の、詫びだ。受け取ってくれ」
開扉の日は、三日後と決まった。三日。短い。だが、あちらにとっても三日だ。急いだ紙が粗くなることを、わたしはもう知っている。
三日のうち一日を、わたしは席を借りる手続きに使った。ヴァント氏には、当日そのまま来ていただく。クレメンスの委任状は、公証院の登録係へ回して受理を取った。受理の判が下りるまでに半日かかり、そのあいだ、わたしはずっと廊下で待った。
誰かが席を持っているという事実は、紙にしなければ効かない。二人に会って言葉を交わしただけでは、まだ何も起きていない。
残る二日をわたしは、まったく別のことに使った。受入所へ通ったのだ。
「検認人さま、また、あの巻を」
「いいえ。今日は、これからのことでございます」
わたしは係の老人と、若い書記を前に一枚の申請を広げた。
「開扉の当日、庫へ持ち込まれるもの、持ち出されるものを、すべて、その場で受入目録に記していただきとうございます」
係が、目を丸くした。
「そりゃあ……やりますが、いつもは、後で、まとめて」
「当日、その場で。品ごとに。持ち込む者の名と、時刻を添えて」
「なぜ、そこまで」
「百二十年ぶりの開扉でございますから」
わたしは、微笑んだ。
「記録が薄いと、後の世の公証人が困ります。……わたくしのように」
係の老人は、しばらくわたしを見て、それから、笑った。
「なるほどね。……ええ、やりましょう。うちの綴りは、庫の外にありますから。誰にも、書き替えられません」
わたしは、両手を前で組んで、頭を下げた。この一枚が、この二日でいちばん大事な仕事だった。
庫の中で何が起きても、庫の外の目録が、入ったものと出たものを覚えている。入っていないものが庫から出てきたら、それは、庫にあったものではない。
(——扉を開けさせるなら、扉の外に、目を置きます。)
前の晩、わたしは眠れなかった。眠れないので、この二年の綴りを全部出して、床に並べた。婚約契約書の写し。執行認定の写し。偽の合意書。父の符牒。ヴィンケルの私控え。そして、不在の公証の控え。
一枚ずつ拾って、また置いた。執行認定の写しの末尾に、あの人の署名がある。署名の前に一拍おく癖のぶんだけ、書き出しの一画が濃い。査問を待つ執行局長は、明日の立会いに呼ばれていない。呼ばれなかった椅子のぶんまで、明日、わたしが読む。
この二年、わたしが積み上げたものは、全部、紙だった。剣も魔法も持っていない。持っているのは、書いて、証して、残す、それだけの技だ。明日、その技で、百二十年開かなかった扉の前に立つ。
(お父様。あなたが届かなかったところへ、明日、行ってまいります。)
当日。原本庫の最奥へ続く廊下は、灯の間隔が広く、足音がよく響いた。
鉄の扉の前に、人が集まっていた。誰も大きな声を出さない。声を出せば石の壁が返してくるからだ。百二十年ぶりの開扉に立ち会う人間が、こんなに少ないことに、わたしは少し驚いていた。
王家の使い。ヴァルター師。記録官。そしてモルゲンシュテルン侯爵アルブレヒトと、家令ケルナー。立会席の者は、三人。
ヴァント両替商の主。緊張で、上着の裾を何度も直している。
クレメンス・フォン・バルシュミーデ。擦り切れた上着のまま、背だけはまっすぐに立っていた。
そして、公証人ユスティーナ・フォン・ヴェッセル。第九席の、院からの指名者として。
「よく集めたな」
アルブレヒトが、静かに言った。
「三席。……過半には、遠い」
「開けるためではございません。見るために参りました」
「見て、どうする」
「見ます。それだけでございます」
わたしは外套の内から、受入所の綴りの控えを取り出した。
「本日、庫へ持ち込まれるもの、持ち出されるものは、すべて、その場で受入所の係が記します。品ごと、名ごと、時刻ごとに」
ケルナーの肩が、ほんのわずかに、動いた。わたしは、それを見なかったふりをした。
「侯爵様。よろしゅうございますね」
「……好きにするがいい」
王家の使いが、進み出た。三本の鍵のうち、一本目。王家の鍵。
二本目は、王命が総裁の鍵に代わる。ヴァルター師が、王命の書面を掲げた。
そして、三本目。アルブレヒトが懐から、黒ずんだ鉄の鍵を取り出した。
百二十年、あの家が預かってきた、最古の一本。
鍵が、鉄の扉に差された。
いよいよ扉の前です。
第五十話の最後にめくった院則の付則が、ここで効きます。絶えた家の席は院が預かり、免状を持つ公証人から指名する——第四十話の免状が、扉の前の椅子に変わりました。
そして、この回でいちばん大事なのは、鍵でも席でもなく、受入所への申請です。庫の中で何が起きても、庫の外の目録が、入ったものと出たものを覚えている。入っていないものが庫から出てきたら、それは庫にあったものではない。
扉を開けさせるなら、扉の外に目を置く。派手ではありませんが、この人の勝ち方はいつもこれです。
ヴァルター師の「守れんかった四十年の詫びだ」も、書けてよかった一行でした。呼ばれなかった椅子のぶんまで読む、と決めた背中に何か感じてくださった方、評価で一押しを。




