第50話:頭を下げない詫び
王命の写しを、三度読んだ。三度読んでも、書いてあることは変わらなかった。
写しは、今朝いちばんに届いていた。ミルテの手も、ベンノの手も通っていない。執行局の封で、差出人の欄だけが、空だった。封蝋はまだ新しく、指で押すと、わずかにへこんだ。
——公証人ユスティーナ・フォン・ヴェッセルの不在の公証により、古庫棚十七の内容に疑義が生じた。よって王命をもって古庫を開き、これを検む。
わたしの紙が、根拠にされている。
「……上手いこと」
わたしは、机に額をつけた。わたしは「開けずに証せる」と書いた。書いたことで、「ならば開けて確かめよ」の理屈を、あの方に渡してしまった。
過半が届かなくなったから、鍵の三本目を、王命で代えに来たのだ。
「ユスティーナ様、これ、悪いことなんですか」
ミルテが、おそるおそる訊いた。
「庫が開いたら、棚十七に別の家の紙が入ってるって、はっきりするんじゃ」
「そうね。ふつうは、そうですわ」
わたしは、顔を上げた。
「けれど、開扉の日を決めるのは、鍵を持つ家。庫の中に最初に入るのも、鍵を持つ家。……その家に、十年前、中身をすり替えた前科があったら?」
ミルテが、口を手で押さえた。
「入れ、ますね。……別のものを」
「そう」
開扉の場で、棚十七から、あの「古い写し」が出てくる。偽と証されたはずの紙が、庫の中から出てくれば、話は逆になる。庫にあったのだから本物だ、と。
わたしが十日かけて積んだものが、一晩でひっくり返る。
「立会席が、要りますわ」
わたしは、帳面を閉じて立った。
「開扉には、鍵と別に、立会席の者が立ち会います。過半に届かなくとも、席を持つ家は、立ち会う権がございます。……立ち会う者がいれば、庫の中で誰も、何も置けません」
「ユスティーナ様は、席を持ってません」
「ええ。ですから、借りにまいります」
ヴァント両替商の店は、王都の東にあった。両替商というのは、人の信用を数で扱う商いだ。数を扱う人は、たいてい、紙をよく読む。この人が騙されたのは、読まなかったからではない。読んでも分からない場所に穴があったからだ。
救ったときより、店は少し広くなっていた。主のヴァント氏は、わたしを見るなり、帳場から飛び出してきた。
「公証人さま! いや、あのときは、ほんとうに」
「ヴァント様。第三席のことで、伺いました」
「第三席……はて」
この人も、知らなかった。自分の家が古庫の立会席を持っていることを、知らずに生きてきた。それが、この格式の実態だ。
わたしが説明すると、ヴァント氏は、二つ返事で承諾した。承諾したあとで、少し不安そうに言った。
「あの、うちみたいな商人が、そんな場に出ても」
「席は、格ではなく、権でございます。……ヴァント様。あなた様が座らねば、あの席は、宙に浮いたままです」
残る一つは、バルシュミーデ侯爵家。第十一席。
わたしはその足で、王都の西のはずれへ向かった。かつての侯爵邸は、もう人手に渡っている。クレメンスはその裏手の、貸家の二階に住んでいた。
階段が軋んだ。扉を叩くと、しばらくして、開いた。
「……ユスティーナ」
擦り切れた上着。頬はこけたまま。けれど頭を下げに来たときより、目の焦点が合っていた。
部屋の中に、机が一つあった。机の上に、紙が積んである。全部、読みかけの証文だった。
「……何しに来た」
「第十一席を、お借りしに」
クレメンスは、ぽかんとした。わたしが説明すると、聞き終わるまでに三度、聞き返した。それから机の紙を脇へ押しやって、椅子を出した。
「座れよ。……立ち話で決めることじゃない」
わたしは、座った。
「モルゲンシュテルンの融通は、断った。第九条の鉤爪に気づいたから」
「存じております」
「断ったせいで、家は畳んだ。使用人も散った。……お前の言うとおりにして、俺は、全部失った」
「はい」
わたしは、否定しなかった。否定するのは、この人に対して失礼だ。
「けどな」
クレメンスは、机の紙を見た。
「第九条を読まずに判を捺してたら、失ったうえに、席まで取られてた。……差し引きで、一つだけ、残ってる」
彼は、笑った。ひどく下手な笑い方だった。
「その一つを、いま、お前が借りに来た」
「はい」
「……貸すよ」
それだけだった。頭は下げなかった。詫びも言わなかった。わたしも、礼を長く言わなかった。
紙を出し、代理の委任状を書き、彼が署名した。字は、昔より、ずっと丁寧になっていた。
「クレメンス」
「なんだ」
「その机の紙は」
「……読んでる」
彼は、目を逸らした。
「口入れ屋の下働きだ。証文の写しを取る。読めなくてもできる仕事だが、読んでる。……読まずに判を捺すと、どうなるか、身をもって知ってるからな」
わたしは、頷いた。
「よい読み手になられますわ」
「うるさい」
階段を下りながら、わたしは、少しだけ、泣きそうになった。報いというのは、たぶん、こういう終わり方をする。
潰れた人が、潰れた場所から、自分の足で立ち方を覚え直す。誰も謝らないし、誰も許さない。ただ、紙の読み方だけが、残る。
三席。ヴァント、バルシュミーデ、そして——旧レーヴェ男爵家の第九席。
わたしは外套の内で、その名を数え直した。絶えた家の席は、宙に浮く。浮いた席は、数に入らない。
けれど。浮いた席を、誰が管理するのか。
院則には、なんと書いてあっただろうか。
第四章の締めです。
ユスティーナの勝利が、そのまま相手に鍵を渡します。「開けずに証せる」と書いたから、「ならば開けて確かめよ」が通る。庫を開ける日を決めるのも、最初に入るのも、鍵を持つ家——十年前に中身をすり替えた、あの家です。
だから席を借りに行きます。ヴァントもクレメンスも、自分が席を持っていることすら知りませんでした。役に立たない格式とは、そういうものです。
クレメンスは、頭を下げませんでした。詫びも言いません。ただ「貸すよ」とだけ。そして机の上には、読みかけの証文が積んであります。第一部でユスティーナが置いた「次の一枚は読みなさい」の、これが答えです。
最後の三行。宙に浮いた席は、誰が管理するのか——院則を、もう一度めくります。




