第49話:急いだ紙は、粗い
三通を、朝まで読んだ。ゾンネンベルク伯爵家、三年前。フランケ子爵家、一昨年。レーヴェ男爵家、去年。
どれも、よく書けていた。悪い契約というのは、たいてい読みにくい。読ませないために読みにくく書く。この三通は逆だった。読みやすい。読みやすいから、末尾まで読まれずに判が捺される。
借財の整理としての体裁は完璧で、利率も相場より低く、返済の条も無理がない。読んだ相手が「ありがたい」と思うように作られている。そして末尾に、立会席の譲渡の一条。
「……粗が、ありませんわね」
わたしは、目を擦った。燭台の蝋は、もう受け皿まで垂れきっていた。
「三通とも、同じ書役の手だ」
ライナルトが、日付の欄を指した。
「筆跡が同じ。用いた語も同じ。……だが、一つだけ、揃っていないものがある」
「なんでございましょう」
「立会いだ」
わたしは、身を起こした。譲渡は、公証院に登録される。登録には、立会人の署名が要る。誰が譲渡の場に立ち会ったか。
立会人というのは、証文の中でいちばん軽く扱われる欄だ。中身を読む人はいても、末尾の署名の並びまで数える人はいない。書役でさえ、体裁が整えば通す。
わたしは十年、その欄で人を助けてきた。中身が正しくても、立会いが欠ければ、その紙は死ぬ。逆に言えば、中身がどれほど巧妙でも、立会いが欠ければ、やはり死ぬ。
ゾンネンベルク。立会人二名。ケルナーと、公証院の書記。
フランケ。立会人二名。ケルナーと、公証院の書記。
レーヴェ。立会人二名。ケルナーと——
「……ケルナーが、二人」
同じ名が、二つ並んでいた。立会人の欄に、ケルナー、ケルナー。
「殿下。これは」
「書き損じ、として通っている」
ライナルトは、登録の控えを繰った。
「登録の際に、公証院の書記が来られなかったのだろう。それで、名を二つ書いて、体裁を整えた。……この時期、公証院は、何かで忙しかったはずだ」
わたしは、日付を見た。去年の、冬。わたしがまだヴェッセル家の書庫で、叔父の名義の紙を繕っていたころ。
「……公開審問の、少し前でございます」
「そうか」
「ドロテウス副総裁が、王命の再調査で慌てていた時期でございます。院の書記は、そちらに取られておりました」
急いだのだ。院が乱れているうちに、あと一つ、席を確保しておこうとした。
そして、急いだ紙は、粗い。
「院則第二十六条」
わたしは、暗記している条を口に出した。
「譲渡の登録は、譲渡人・譲受人いずれにも属さぬ立会人二名を要す」
「ケルナーは」
「モルゲンシュテルン侯爵家の家令。……譲受人に、属しております」
窓の外が、うっすらと白んでいた。
「では、ゾンネンベルクとフランケも」
「あれは、ケルナー一名と、公証院の書記が一名。書記は院の者ですから、いずれにも属しません。要件を満たしております」
わたしはレーヴェの一通を、灯の下へ寄せた。
「けれど、これは、二名ともケルナー。……いずれにも属さぬ立会人が、一人もおりません」
声が、震えていた。悔しさではなく、たぶん、その逆で。
「この譲渡は、登録の要件を欠いております」
「無効か」
「はい。第九席は、いまも、旧レーヴェ男爵家に属します」
ライナルトが、羽根ペンを取って、日付の脇に印をつけた。
「レーヴェは、家名が絶えている」
「はい。ですから、席は宙に浮きます」
「行使する者のいない席は、数に入らんのだったな」
「入りません」
わたしは、指を折った。モルゲンシュテルン家の席。第一席、第四席、第七席。
三つ。
「四つが、三つになります」
「過半は六だ」
「はい」
わたしは、椅子の背にもたれた。あと二つで開く扉が、あと三つになった。
残って生きている席は、ヴァント家とバルシュミーデ家の二つだけ。二つとも取っても、五。
「殿下。……届かなくなりましたわ」
「そうだな」
ライナルトが、めずらしく、少しだけ口の端を上げた。
「よく、末尾まで読んだ」
「殿下が、日付から読んでくださいましたので」
窓の外が、白み始めていた。わたしはレーヴェの一通を、白布に載せ直した。
この紙は、あの家が急いだ証しだ。急がせたのは、公証院の乱れ。乱れを作ったのは、ドロテウスの失脚。失脚させたのは、わたし。
(——わたしが作った穴が、あの方に鍵を渡して。わたしが作った乱れが、あの方の紙を、粗くしたのだわ。)
紙は、正直だ。誰の味方もしない。ただ、書いたとおりに、残る。その日の夕刻、公証院へ登録無効の申立てを出した。受理の判を押したのは、ヴァルター師だった。老公証人は、書面を三度読み、三度とも同じところで指を止め、それから、ずいぶん長いあいだ、羽根ペンを持ったまま動かなかった。
「……院則第二十六条。要件を、欠いておるな」
「はい」
「欠いておる」
もう一度、自分に言い聞かせるように言って、判を押した。押した手が、震えていた。この人は、怖い。怖いまま、それでも、欠けている紙を欠けていると書く。この老人は、ずっとそうだった。
受理された。そして、その三日後。
王宮から、まったく別の紙が届いた。
——古庫の開扉を、王命をもって行う。
この作品でいちばん好きな型の回です。派手な暴露ではなく、立会人の欄に同じ名が二つ並んでいる、それだけで一つの席が戻ります。
急いだ紙は粗い。急がせたのは公証院の乱れで、乱れを作ったのはドロテウスの失脚で、失脚させたのはユスティーナ自身。第一部の勝利が第二部の穴になった第四十一話と、ちょうど裏返しの因果です。
末尾から読む人と、日付から読む人。二人で読まなければ、この一枚は落ちていました。第四十八話のあの並びが、そのまま効いています。
あと二つで開く扉が、あと三つになりました。届かなくなった——はずでした。




