第48話:解約条項は、ありません
三日、わたしは筆が進まなかった。こういうときの父の教えは、目の前のいちばん小さな紙を読め、だ。読んだ。市井の証文を七通、検めて、直して、返した。
それでも、進まなかった。小さな紙を読んでも消えない詰まりというものが、この世にはある。
四日目の夜、執行局へ行った。道々、言葉の順序を三度組み替えた。結論を先に置くか、理由を先に置くか。書面なら結論が先だ。人に言うときは、理由が先のほうが角が立たない。
結局、書面の順にした。角が立とうと、そのほうが正確だ。わたしは扉を開けるなり、用意してきた言葉を、順番どおりに言った。
「殿下。しばらく、わたくしのほうから執行局へ参るのを、控えようと存じます」
ライナルトは、羽根ペンを置いた。
「理由は」
「査問の場で、公証人と執行局長の私的な近さを問われれば、殿下に不利でございます。書面のやり取りは、ミルテかベンノを通します。それで、支障はございません」
「支障は無いな」
「はい」
「では、断る」
わたしは口を開けたまま、止まった。
「……お断りに、なるのですか」
「断る」
ライナルトは抽斗から一枚の紙を出して、机に置いた。見覚えがあった。あの夜の紙だ。
——解約条項のない契約。
第一条。互いの紙を、生涯いちばん丁寧に読むこと。あのとき、わたしが書き足した一条。
「読んだ」
「え」
「あなたが今日ここへ来る前に書いた紙を、読んだ」
ライナルトは、わたしの顔を見た。
「顔に書いてあった。俺のために身を引く、という紙だ。……第一条により、丁寧に読んだ上で、申し上げる。その紙は、受理できん」
喉の奥が、詰まった。
「殿下。ですが、査問は」
「査問は、俺の問題だ」
「わたくしの紙が原因で」
「違う」
短かった。
「原因は、十年前に、俺が偽の借用証を見抜けなかったことだ。あなたが書いた紙ではない。……順序を、間違えるな」
ライナルトは、立ち上がった。わたしは、机の上の紙を見た。
解約条項のない契約。あの夜、この人が差し出した求婚の形。条項は三つしかなくて、どれも短い。短い条項ほど、書いた人間の腹が出る。
あのとき、わたしは第一条を足した。互いの紙を、生涯いちばん丁寧に読むこと。足したときは、可愛らしい約束のつもりだった。まさか、二月と経たずに、それで自分の逃げ道を塞がれるとは思っていなかった。
「それに、俺は、査問を受ける」
「受ける、とは」
「奏上を取り下げさせない、ということだ。取り下げさせれば、それは取引になる。取引で守った椅子には、二度と座れん」
わたしは、息を呑んだ。
「もし、椅子を失われたら」
「失う」
この人はこういうときだけ、笑う。目は笑っていない。口の端が、ほんの少し動くだけだ。
「失って困るのは、俺ではない。執行局の後ろ盾を失って困るのは、あなたの紙のほうだ。……だから、椅子を守る。守れなければ、守れなかったと、あなたに書面で報告する」
わたしは、両手で顔を覆った。この人はいつも、こうだ。優しい言葉を、一つも言わない。言わずに、いちばん要るものを、机の上に置いていく。
「……殿下。ケルナーが、申しました。わたくしが隣にいることが、殿下の枷になっていると」
「聞いた」
「嘘だと、思われますか」
ライナルトは、少し考えた。考えたのが、かえって誠実だった。
「半分は、本当だ」
「……はい」
「あなたの紙は、俺の傷を毎度、明るいところへ引き出す。……だが、それは枷ではない」
「では」
「検めだ」
灰青の目が、こちらを向いた。
「俺は、十年前の自分を、二度と見たくない。見たくないから、隠す。隠せば、また同じ執行をする。……あなたが毎度引き出してくれるから、俺は、あれから一度も間違えていない」
わたしは返す言葉を、持っていなかった。
「枷ではなく、検めだ。……嘱託。あなたは、俺の検め印だ」
わたしはしばらく、うつむいていた。この人はたぶん、いま自分がとんでもないことを言った自覚が無い。恥ずかしがっているのは、こちらだけだ。
「……殿下。それは、口説き文句でございますか」
「業務の評価だ」
「そうですか」
「そうだ」
顔を上げると、ライナルトは、封札の控えのほうを見ていた。耳が、少しだけ赤かった。
その夜、わたしたちは、机の上に立会席の譲渡契約の写しを広げた。ゾンネンベルク、フランケ、レーヴェ。三通。
執行局の権で取り寄せてもらった。査問を控えた執行局長が、堂々とやってのけた。
「殿下。よろしいのですか、こんなことをして」
「執行局長の職務だ。譲渡の実行に係る紙は、いつでも取り寄せられる」
ライナルトは、椅子を引いて、わたしの隣に座った。二人で、同じ紙を、端から読み始める。
燭台の灯が、二つ分、重なった。
紙をめくる音が、二つ。速さが違うので、揃わない。揃わないまま、部屋の中に二つの音が続いた。
こんなふうに誰かと並んで紙を読んだのは、父の書庫以来だった。
(……ああ。わたし、この音が、好きなのだわ。)
条項の話も、恋の話も、この人はしない。ただ、隣に椅子を引いて、同じ紙を読む。それがこの人の言い方なのだと、二月かかって、ようやく分かってきた。
「……あなたは、末尾から読むのだったな」
「はい。殿下は」
「俺は、日付からだ」
恋の回です。ユスティーナはこの作品で、いつも紙で人を守ろうとします。今回は、その紙を突き返されました。
「その紙は、受理できん」。第三十話の解約条項のない契約の第一条——互いの紙を生涯いちばん丁寧に読むこと——が、こんな形で効きます。丁寧に読んだ上で、断る。
そして「枷ではなく、検めだ」。ケルナーの言った半分は本当でした。本当を認めた上で、意味を逆にひっくり返す。ライナルトの賛辞は、やっぱり業務評価の形をしています。
最後、二人で同じ紙を読み始めます。末尾から読む人と、日付から読む人。この二人の読み方の違いが、次話で効いてきます。




