第46話:慈悲の顔
招きの紙が来たのは、検分の三日後だった。上等な紙に、上等な字。モルゲンシュテルン侯爵アルブレヒトの名で、茶を一服いかがか、と書いてある。
「行ってはなりません」
ベンノが、めずらしく強い声を出した。
「毒を盛られるとは申しませぬ。あの手の家は、そんな下品なことはいたしません。ですが、招かれて出向けば、それだけで一つ、借りができます」
「ベンノ。招きを断ると、いくつ借りができるかしら」
老書記が、詰まった。
「……ご無礼が、一つ」
「そうね。同じ一つですわ。なら、行って、顔を見てまいります」
侯爵邸は、王都の北の、いちばん古い区画にあった。門から玄関まで、馬車で少しかかる。庭の木は、どれも百年を超えている。誰かが百年前に植えて、その人はもう死んでいるのに、木だけが残って、家の格を毎年一つずつ太らせている。
通されたのは、小さな部屋だった。大広間ではなく。
(——大広間へ通せば、格を見せつけることになる。小部屋なら、対等に話しているように見せられる。……こまかい方だわ。)
モルゲンシュテルン侯爵アルブレヒトは、思っていたより、小柄な人だった。六十くらいだろうか。上等だが地味な服。指輪は一つだけ。声は穏やかで、聞き取りやすい。
「よく来てくださった。座ってくれ」
茶が出た。わたしは、手をつけなかった。侯爵はそれを見て、微笑んだ。
「賢い。わたしも若いころは、そうしていた」
「恐れ入ります」
「ケルナーが、迷惑をかけたようだ」
いきなり、そこから来た。
「あの者は、家のためを思うあまり、走りすぎるところがある。写しの件は、当家の落ち度だ。詫びよう」
深く、頭を下げられた。侯爵が、公証人に。わたしはその頭を見ながら、背筋が冷たくなるのを感じた。
(——この方、いま、ケルナーを、切ったのだわ。)
家令一人を差し出して、家は無傷で降りる。いちばん安い後始末だ。
「侯爵様」
「なんだね」
「立会席のことを、伺ってもよろしゅうございますか」
侯爵は、顔を上げた。表情は、変わらなかった。
「ああ、あれか。三つ、譲り受けた」
「四つでございます。自家の席を入れれば」
「そうだったかな」
「ゾンネンベルク伯爵家、フランケ子爵家、レーヴェ男爵家。いずれも借財の整理の際に、末尾の一条で」
「よく調べている」
侯爵は、感心したように頷いた。怒りもしなければ、慌てもしない。わたしが数えたことを、この人は、隠したかったのだろうか。
たぶん、違う。数えられて困る数え方をしていないのだ。譲渡はどれも合法で、登録簿に載っていて、誰でも見られる。見られてよい形に整えてから、集めている。
(——これまでの敵とは、まるで違うのだわ。)
ドロテウスは、隠した。隠したから、暴けた。この人は、隠していない。全部、明るいところに置いてある。
「では、これも知っているだろう。わたしは、その三家に、金を回した。回さなければ、三家とも潰れていた。ゾンネンベルクの当主は、いまも領地で生きている。フランケの娘は、嫁いだ。レーヴェは、家名こそ絶えたが、使用人は路頭に迷わずに済んだ」
「存じております」
「わたしは、何も奪っていない。皆が、差し出したのだ」
穏やかな声だった。言っている内容も、たぶん、事実だ。
「差し出したものが、たまたま、誰も使わぬ古い格式だった。それだけのことだよ、公証人殿。金の代わりに古い椅子を受け取って、それが罪なら、この国の貸し借りはすべて罪になる」
わたしはしばらく、その言葉を胸の中で回した。回して、いちばん軽い一点を、指で押した。
「侯爵様。一つだけ、伺わせてくださいませ」
「どうぞ」
「その一条は、どなたがお書きになりました」
侯爵の指が、茶器の縁で、止まった。
「……なに」
「三家の融通契約の、末尾の一条でございます。借財を整理する話の末尾に、立会席の譲渡を置く。三家とも、同じ形でございました」
わたしは膝の上で、手を組んだ。
「借りる側が、自分から『では立会席を差し上げます』と言い出すことは、ございません。あんなもの、価値があると思っていないのですから。……あの一条は、貸す側が書いたものでございます」
「書役が書いたのだろう」
「では、その書役に、立会席の価値を教えたのは、どなたです」
庭のほうで、鋏の音がした。庭師が薔薇を切っている。
「侯爵様は、何も奪っていない、と仰いました。……そのとおりでございますわ。奪ってはおりません」
わたしは、まっすぐに顔を上げた。
「差し出させる条項を書いたのは、あなたです」
アルブレヒトは、動かなかった。しばらくして、茶器を、静かに置いた。そして、微笑んだ。今日はじめて、目まで笑った。
「……ヴェッセル卿の娘か」
「はい」
「あの男も、同じことを言った。十年前に、この部屋で」
心臓が、一度、大きく鳴った。
「お父様が、ここへ」
「来たとも。一人で。何の後ろ盾もなく」
侯爵は、立ち上がった。
「そして、負けた。……娘さん。あなたは、お父上より数が読める。だが、数が読めるだけでは、扉は開かんよ」
主敵が、ようやく正面に出ます。
この人は、大きな声を出しません。ケルナーを最初に切り捨て、三家を助けた事実を並べ、「わたしは何も奪っていない」と言う。言っていることは、たぶん全部本当です。
だからユスティーナは、奪ったかどうかを争いません。奪っていない、そのとおりです、と認めた上で——差し出させる条項を書いたのは誰か、と一点だけ突きます。第一部からずっと、この人の戦い方は変わりません。
そして最後。父ゲルハルトは十年前、この同じ部屋に、一人で来ていました。「数が読めるだけでは、扉は開かん」。宣戦布告は、向こうからでした。静かな声で殴り合うこの一室が好きだった方、ブックマークで先の頁までお付き合いください。




