第45話:彫った手は、覚えている
公証院の検分の間に、証人として立った市井の職人は、二十七年ぶりだそうだ。ヴァルター師が震える声で、そう告げた。
検分の間は、いつも同じ匂いがする。古い羊皮紙と、鉄墨と、乾いた埃。
長卓の向こうに、審査の三人。傍らに、王宮からの記録官。そして扉のそばに、絹の物腰の男が立っていた。
「侯爵家の家令が、なぜここに」
わたしが訊くと、ケルナーは丁寧に一礼した。
「当家の写しが検めの対象と伺いました。差し出した者として、立ち会う権がございます」
「ございますわね」
わたしは、頷いた。いてくれたほうが、いい。
オトマルは、いちばん良い上着を着てきていた。四十年、一度も袖を通さなかったような、糊の効いた古い上着だった。
検分の間は、天井が高い。声がよく通る代わりに、小さな声はどこにも届かない。市井の職人がこの部屋で口をきくのは、たいてい、責められる側に立つときだ。
わたしは老人の椅子を、長卓の正面ではなく、斜めに置いてもらった。正面に据えると、審問に見える。斜めなら、検めに見える。
ミルテが水の入った杯を、老人の手の届くところへ置いた。教えていない。この子はまた、勝手に覚えている。
「ご職業は」
「彫り師でさ。印と、型と、木の札を」
「本日、検めていただくのは四枚。順にご覧ください」
わたしは白布の上に、四枚を置いた。オトマルは、拡大鏡を掛けた。
一枚目。フォークト商会の偽印。
「わしの手だ」
二枚目。バルツァー商会の偽印。
「わしの手だ」
三枚目。クレメンスが持ち出した、偽の合意書の商会印。
「これも」
記録官の羽根ペンが、走っている。
四枚目。
オトマルはそれを取り上げて、長く見た。誰も、何も言わなかった。
「……わしの手だ。十年前の冬に、彫った」
「何を、彫られましたか」
「封蝋の型を一つ。百二十年前の、公証院の副本の検め印だ」
「なぜ、そのようなものを」
「頼まれたからだ」
「どなたに」
ケルナーがそのとき、初めて動いた。一歩、前に出て、丁寧に、割って入った。
「恐れながら。この者の申し立ては、この者の記憶にすぎませぬ。三十年前、四十年前の彫りを、見ただけで我が手と申すのは、いささか」
「ケルナー殿。ご心配には及びません」
わたしは、二つ目の白布を広げた。その上に、鑿を一本ずつ、丁寧に並べていく。
オトマルの工房から、本人の承諾を得て運んだ、彫刻の鑿。四十年、同じ順で壁に掛かっていたものだ。運ぶ前に執行局へ封を頼んだ。ライナルト様は理由を訊かず、一本ずつ封をして封札の控えだけを寄越した。控えの隅の署名は、いつもの一拍のぶんだけ書き出しの一画が濃かった。
「オトマル殿。三枚目の印は、どの鑿でお彫りになりました」
「二番と、五番と、七番。仕上げに十一番」
「では、四枚目は」
「同じだ。……いや」
老人は、鑿の列に指を這わせた。
「三番を、使っとる。古い書体の、はねのところだ。三番でねえと、あの角度は出ん」
「三番の鑿を、お見せくださいませ」
オトマルが、一本を取り上げた。刃先が、少し歪んでいる。長く研ぎ減って、片側だけが痩せていた。
「この鑿には、傷がございますね」
「ああ。二十年前に、石を彫って欠けた。研ぎ直したが、線がわずかに二重になる」
「なぜ、お捨てにならなかったのです」
「捨てられるかい」
老人は、刃先を親指の腹で撫でた。
「親方から譲られた三本のうちの一本だ。……欠けた鑿でも、癖を覚えりゃ使える。使える道具を捨てるのは、彫り師の恥でさ」
記録官が、その一言まで書き取っていた。書き取ってよかった、と後で思うことになる。捨てなかった理由が、そのまま、壁の鑿が四十年在り続けた証しになるからだ。わたしは四枚目の押し目の写しを、記録官へ回した。
「はねの終わり、ここをご覧ください。線が、わずかに、二重になっております」
誰も、身じろぎひとつしなかった。
「同じ癖の職人が他にいるとしても、同じ場所が欠けた鑿は、他にございません」
わたしは、ケルナーのほうを向いた。
「ケルナー殿。この検め印は、十年前に、この鑿で彫られたものでございます。百二十年前の公証院の印では、ございません」
絹が、動かなかった。
「……であれば、なんと」
「あなた様が差し出された写しは、十年前より後に作られたものでございます。すなわち、百二十年前の写しでは、ございません」
言い終えて、わたしは、一呼吸置いた。
「偽でございます」
記録官の羽根ペンが、止まった。それからいままででいちばん速く、走り出した。
「異議がございます」
ケルナーの声は、まだ絹だった。
「当家は、この写しを代々庫に守ってまいったと申し上げたのみ。誰がいつ作ったかまでは、存じませぬ。偽であったとして、当家もまた、欺かれた側でございましょう」
「そのお言葉、記録にお残しくださいませ」
わたしは、記録官のほうへ会釈した。
「ケルナー殿は、この写しの出どころをご存じない、と仰せです。……代々守ってきた家宝の出どころを、家令がご存じない。書き留めておいていただきとうございます」
ケルナーの喉が、わずかに動いた。守ってきたと言えば、作らせた者に近づく。知らぬと言えば、家宝ではなくなる。どちらへ逃げても、片方が閉まる。
紙で人を追い込むというのは、そういうことだ。
「オトマル殿。最後に、一つだけ」
「なんでも訊きな」
「その型を、あなたに彫らせたのは、どなたです」
老人は、まっすぐ前を見た。視線の先には、扉のそばに立つ、絹の物腰の男がいた。
「名は、名乗らんかった」
「では、覚えていらっしゃることを」
「——わしに彫らせたのは、絹の声のお人だ」
オトマルは、指を上げた。
まっすぐ、迷いなく、そちらを指した。
「その、お人だ」
第二部、二つ目の区切りです。第四話から積み上げてきた偽印の伏線が、ここで全部つながります。
記憶では足りない、と言われることは分かっていたので、鑿を運びました。二十年前に石を彫って欠けた三番の鑿。研ぎ直しても線がわずかに二重になる——同じ癖の職人はいても、同じ場所が欠けた鑿は他にありません。物証で殴るのが、この作品のやり方です。
そしてケルナーを立ち会わせたのは、ユスティーナの選択でした。「いてくれたほうがいい」。指を差される場に、本人がいなければ意味がありません。
絹が、初めて、ほつれます。




