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婚約破棄? ご自由に。ただし違約条項は執行させていただきます 〜「地味な文書係」と捨てられた令嬢、その婚約契約書を書いたのはわたしです〜  作者: 白石アリア


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第44話:消される前に

「あの晩、とは」


 わたしは、慎重に訊いた。オトマルは、しばらく答えなかった。壁の鑿を、端から端まで、目でなぞっていた。


「十年前の、冬だ」


「はい」


「夜中に、人が来た。絹の声のお人と、頭巾をかぶったのが一人」


 喉の奥が、乾いた。頭巾。公開審問で、ヴィンケルが恐怖で名を言えなかった、あの。


「型を彫れ、と言われた。印じゃねえ、封蝋の型だ。しかも、百二十年前の、公証院の副本の検め印。……そんなもんを頼む理由は、一つしかねえ」


「古い写しを、作るため」


「そうだ」


 老人は、両手で顔を擦った。


「断った。わしゃ、断ったんだ」


「では、なぜ」


「翌る日、うちの倅が、荷馬車に轢かれた」


 鑢の音も、路地の音も、聞こえなくなった。


「命は、助かった。足は、だめになった。……その晩、また来た。同じ二人が。お気の毒に、とだけ言って、帰りやがった」


 オトマルは笑おうとして、失敗した顔をした。


「三日後に、彫った」


 わたしは、何も言えなかった。紙の話をしに来て、紙ではないものに突き当たると、いつも、こうなる。


「倅は、いま」


「六年前に、死んだ。足が悪いまま、酒を飲むようになってな」


「……申し訳ございません」


「あんたが謝ることじゃねえ」


 老人は、拡大鏡を布で拭き始めた。手を動かしていないと、話せない人なのだと思った。


「公証人さま。わしゃ、証しに立ってもいい」


「オトマル殿」


「四十年、彫ってきた。いい仕事もした。マレーネさんとこの旦那の札も彫った。……最後の一つくらい、まっとうな使い道があってもいい」


 わたしは、頭を下げた。深く、長く、下げた。そして顔を上げたときには、次のことを考えていた。


 この人はあの家にとって、いま、いちばん危ない紙になった。ヴィンケルのときは、付け火だった。長屋が焼け、証人を移送した。あの、雨の晩。


 同じ手は、来ない。あれで一度、失敗しているからだ。


「オトマル殿。この工房の、権利の紙をお見せくださいませ」


「権利の紙?」


「地面と、建物の。借りているのなら、借地の証文を」


 老人は、怪訝な顔で、奥から古い箱を出してきた。中に、紐でくくった書付が一束。四十年ぶんの、雑多な紙だ。わたしはその場で解いて、読んだ。


 四十年ぶんの紙は、順序が無い。鑿の壁はあれほど整っているのに、書付は束ねただけだ。彫り師の几帳面さは、刃にしか向かない。


 組合の受取。井戸の分担の覚え。倅の薬礼の書付。それからいちばん下に、硬くなった借地の証文。


 借地の証文。地主は、代替わりしている。三年前に、いまの地主へ移っている。わたしは地主の名を見て、息を止めた。


 旧レーヴェ男爵家。——第九席を、去年、モルゲンシュテルン侯爵家へ譲渡した家。


(……もう、押さえられている。)


 わたしは、証文の末尾へ目を走らせた。第三条。


 ——地主が土地を他に用いる要ありと認めしときは、三月前の申し入れをもって、借地人はこれを明け渡すものとする。


 理由を書かなくていい。争えない。合法だ。火をつける必要など、ない。紙一枚で、この老人を路地から消せる。


「オトマル殿。この三条は、いつからございます」


「さあ……先代のときからだと思うが」


「三年前に、書き替えられております。墨の色が、他と違いますわ」


 老人が、初めて、目を見開いた。


「じゃあ、あいつら……もう」


「はい。もう、押さえております」


 わたしは、証文を白布に載せた。


「けれど、押さえている、ということは、まだ使っていない、ということですの」


「同じことだろう」


「いいえ。ぜんぜん違いますわ」


 わたしは、作業台の木屑を手の甲で払って、そこへ白紙を一枚、置いた。


「まだ申し入れが来ていない紙は、こちらから先に手を打てます。……オトマル殿。あなたを、公証院の証人として登録いたします」


「なんだって」


「係争に関わる証人の居所を、係争中に一方の都合で動かすことは、院則第四十条の趣旨に反します。四十条は、係争中の者は検認に立てぬ、と定める条。逆から読めば、係争と居所は、切り離して扱わねばならない、ということですわ」


「……わしにゃ、何を言ってるのか」


「明け渡しを、止められるということです」


 わたしは、老人の目を見た。


「三月かかる紙を、こちらは今日、書きます。今日書いた紙のほうが、早いのです」


「なんで、そこまでしなさる」


 オトマルが、ぽつりと言った。


「わしゃ、あんたの親父さんを嵌めた紙の、印を彫った男だ」


 わたしは、羽根ペンを止めた。止めて、しばらく考えた。ここで嘘をつくのは、この人に対して失礼だと思った。


「憎くないわけでは、ございません」


「だろうな」


「けれど、あなたを路地から消して得をするのは、あなたに彫らせた方でございます。……わたくしは、あの方に、これ以上、得をさせたくないだけですわ」


 老人は、ふん、と鼻を鳴らした。


「正直なお人だ」


「公証人ですもの。書けないことは書きませんし、思っていないことは申しません」


 詰所へ戻る道で、王宮の小さな広間を思い出した。窓辺の刺繍枠。途中で切れたままの白い糸。あの背のまっすぐな方も、同じ家の書いた一文で縛られようとしている。


(……守る順番は、つけませんわ。)


 その日の夕刻、わたしは登録の申請を出した。


 二日後、工房に、地主からの申し入れが届いた。


 三月前の、明け渡しの申し入れ。日付は、わたしが登録を出した、その翌日だった。

オトマルが彫った理由が明かされます。倅の足と、お気の毒に、の一言。第一部でドロテウスがやっていたことより、たちが悪い形にしました。

 そして、第二十七話の付け火とは違う手。ヴィンケルのときに一度失敗しているので、今度は合法で来ます。地主の代替わり、三年前に書き替えられた第三条、理由を書かなくていい明け渡し——火をつける必要はありません。紙一枚で人を消せます。

 「押さえている、ということは、まだ使っていない、ということ」。ユスティーナが紙で人を守るとき、いつも一手だけ早く書きます。

 申し入れの日付は、登録を出した翌日でした。ぎりぎりで、間に合っています。

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