↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄? ご自由に。ただし違約条項は執行させていただきます 〜「地味な文書係」と捨てられた令嬢、その婚約契約書を書いたのはわたしです〜  作者: 白石アリア


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
43/48

第43話:彫り師オトマル

 翌朝、板戸は、細く開いていた。閉まっていれば、それが答えだと思っていた。開いていた、ということは、あの一行を読んだということだ。


 中は、思っていたより広かった。土間の奥に作業台が一つ。壁一面に、大小の鑿が、刃の丈の順に並んでいる。掛け方に隙がない。四十年、同じ順で掛け続けた人の壁だ。


 作業台の向こうに、老人が座っていた。背は曲がっているのに、手元だけがまっすぐだった。片方の目に、革紐で留めた拡大鏡を当てている。


「公証人さま、ときたか」


 声は、思ったより低かった。


「オトマルと申します。……座るとこは、そこの台しかねえ」


 わたしは、素直に台へ腰かけた。ミルテは戸口に立たせた。部屋は、黄楊と蜜蝋と、金気の匂いがした。作業台の縁は、肘の当たるところだけ、木目が消えるほど擦れて光っている。


 台の隅に、彫りかけの木札があった。子どもの名らしい字が、半分だけ彫られている。


「そちらは」


「西の長屋の、赤子の名でさ。生まれてすぐ死んだ」


 老人は、それを布で覆った。


「銭は取らん。あっちの仕事だ」


 あっち、とこっちがあるのだ、と思った。この人の中には、線が引いてある。引いてあるのに、越えた日があったのだろう。


 線を引いている人のほうが、越えたときに深く傷む。線のない者は、越えたことにも気づかない。


「検めていただきたい印がございます」


「見せてみな」


 わたしは四枚の押し目の写しを、順に台へ置いた。一枚につき、傷の位置のぶんだけ、別紙に写し絵を添えてある。いつからそう作るようになったのか、思い出しかけて、やめた。手のほうが、覚えていた。オトマルは、拡大鏡を落として、一枚目を取った。


 それだけだった。一枚目を見て、二枚目に手を伸ばしかけて、止めた。


 止めた手が、そのまま、下りなかった。


「……三十年前の仕事だ、これは」


「ご自分の彫りだと」


「彫った者にしか分からんことが一つある。彫り出しの一鑿目だ。わしは左から入る。左利きだったのを、親方に殴られて右に直された。直されても、入りだけは左から入る。だから左の肩が深くなる」


 老人は、拡大鏡を台に置いた。


「四十年、直らんかった」


 わたしはその言葉を、噛みしめるように聞いた。癖は、消せない。消せないから、証しになる。父も、同じことを言っていた。紙は、書いた人間の心根まで残す、と。心根どころか、この人の場合は、殴られた日のことまで残っている。


 わたしは三枚目と四枚目を、そっと押し出した。フォークト商会の偽印。バルツァー商会の偽印。


「これも、あんたの手か、と訊きに来なすったか」


「はい」


「わしだ」


 あまりに、あっさりしていた。


「……お認めになるのですか」


「認めるも何も。見りゃ分かる。見て分かる者に、嘘ついてどうする」


 オトマルは、指の腹で目のあたりを押さえた。


「印を彫るのは、罪じゃねえ。頼まれりゃ彫る。商会が印をなくした、直してくれ、と言われりゃ直す。……直した印を、そいつがどう使うかまでは、わしゃ知らん」


「知らずに、彫られたと」


「はじめのうちは、な」


 オトマルは、台の下から、木の型を一つ取り出した。使い込まれた黄楊の塊で、彫り面は擦り減っている。


「印てのは、こういうもんだ。木で試し彫りして、鉛で写して、それから鋼に彫る。三度、同じ形を彫る。……三度も彫りゃ、その形が誰のもんか、嫌でも頭に残る」


「残ったものが、増えていったのですね」


「そうだ」


 老人の声が、そこで少し落ちた。


「途中から、分かってきた。同じ客が、違う商会の印を、何度も頼みに来るようになりゃ、馬鹿でも分かる」


「その客の名は」


「知らん」


「オトマル殿」


「ほんとうに知らんのだ。名乗らんかった。……いつも、絹みてえな声のお人が、代わりの者を寄越した」


 絹。わたしは膝の上で、指を握った。


「では、四枚目を」


 わたしは、最後の一枚を差し出した。ケルナーが持ってきた、あの写しの検め印。百二十年前の公証院の印。


 オトマルの表情が、初めて、変わった。拡大鏡を掛け直す。灯を引き寄せる。台に肘をつく。


 そして、長く、動かなくなった。


「……こいつは」


「いかがです」


「わしの手だ」


 老人は、写しを台に戻した。指の先が、細かく震えていた。


「だがな、公証人さま。こいつは、商会の印じゃねえ」


「はい。公証院の、古い検め印でございます」


「そうだ。……そうなんだ」


 オトマルは、両手を膝に置いた。背中の曲がりが、さっきより深くなったように見えた。


「商会の印なら、なくすこともあらあな。直してくれ、で通る。だが、公証院の百二十年前の印を、誰が、なんのために、直させる」


 オトマルは、拡大鏡の革紐を、指で弄んだ。


「百二十年前の印なんてもんは、もう、この世に押される先がねえんだ。あの時分の紙は、みんな庫の中だ。……庫の中の紙に、いまさら押す必要はねえ」


「では、押す先は」


「これから作る紙よ」


 老人は、こちらを見ずに言った。


「古く見せかけて、これから作る紙。それしかねえ。……そんなこた、彫りながら、分かっとった」


「なんのため、だとお思いになりました」


「思ったさ。思ったから」


 声が、詰まった。


「……あの晩の型は、二度と彫らんと決めとった」

彫り師オトマルの登場です。第四話・第十話・第十八話・第三十五話と積み重ねてきた「左肩が深く沈む」押し目の、出どころに辿り着きました。

 左利きを殴られて右に直された。直されても、彫り出しの一鑿目だけは左から入る。四十年直らなかった癖が、そのまま四枚の紙をつないでいます。

 この人は、嘘をつきません。見て分かる者に嘘をついてどうする、と言います。偽印を彫ってきた老人が、いちばん誠実な口をきくのが、この回でいちばん書きたかったところです。

 そして最後の一行。「あの晩」を、この人は覚えています。次話、その記憶を消しに来る手が動きます。四十年直らなかった癖が証しになる形がお好きな方、評価で一押しを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。