第43話:彫り師オトマル
翌朝、板戸は、細く開いていた。閉まっていれば、それが答えだと思っていた。開いていた、ということは、あの一行を読んだということだ。
中は、思っていたより広かった。土間の奥に作業台が一つ。壁一面に、大小の鑿が、刃の丈の順に並んでいる。掛け方に隙がない。四十年、同じ順で掛け続けた人の壁だ。
作業台の向こうに、老人が座っていた。背は曲がっているのに、手元だけがまっすぐだった。片方の目に、革紐で留めた拡大鏡を当てている。
「公証人さま、ときたか」
声は、思ったより低かった。
「オトマルと申します。……座るとこは、そこの台しかねえ」
わたしは、素直に台へ腰かけた。ミルテは戸口に立たせた。部屋は、黄楊と蜜蝋と、金気の匂いがした。作業台の縁は、肘の当たるところだけ、木目が消えるほど擦れて光っている。
台の隅に、彫りかけの木札があった。子どもの名らしい字が、半分だけ彫られている。
「そちらは」
「西の長屋の、赤子の名でさ。生まれてすぐ死んだ」
老人は、それを布で覆った。
「銭は取らん。あっちの仕事だ」
あっち、とこっちがあるのだ、と思った。この人の中には、線が引いてある。引いてあるのに、越えた日があったのだろう。
線を引いている人のほうが、越えたときに深く傷む。線のない者は、越えたことにも気づかない。
「検めていただきたい印がございます」
「見せてみな」
わたしは四枚の押し目の写しを、順に台へ置いた。一枚につき、傷の位置のぶんだけ、別紙に写し絵を添えてある。いつからそう作るようになったのか、思い出しかけて、やめた。手のほうが、覚えていた。オトマルは、拡大鏡を落として、一枚目を取った。
それだけだった。一枚目を見て、二枚目に手を伸ばしかけて、止めた。
止めた手が、そのまま、下りなかった。
「……三十年前の仕事だ、これは」
「ご自分の彫りだと」
「彫った者にしか分からんことが一つある。彫り出しの一鑿目だ。わしは左から入る。左利きだったのを、親方に殴られて右に直された。直されても、入りだけは左から入る。だから左の肩が深くなる」
老人は、拡大鏡を台に置いた。
「四十年、直らんかった」
わたしはその言葉を、噛みしめるように聞いた。癖は、消せない。消せないから、証しになる。父も、同じことを言っていた。紙は、書いた人間の心根まで残す、と。心根どころか、この人の場合は、殴られた日のことまで残っている。
わたしは三枚目と四枚目を、そっと押し出した。フォークト商会の偽印。バルツァー商会の偽印。
「これも、あんたの手か、と訊きに来なすったか」
「はい」
「わしだ」
あまりに、あっさりしていた。
「……お認めになるのですか」
「認めるも何も。見りゃ分かる。見て分かる者に、嘘ついてどうする」
オトマルは、指の腹で目のあたりを押さえた。
「印を彫るのは、罪じゃねえ。頼まれりゃ彫る。商会が印をなくした、直してくれ、と言われりゃ直す。……直した印を、そいつがどう使うかまでは、わしゃ知らん」
「知らずに、彫られたと」
「はじめのうちは、な」
オトマルは、台の下から、木の型を一つ取り出した。使い込まれた黄楊の塊で、彫り面は擦り減っている。
「印てのは、こういうもんだ。木で試し彫りして、鉛で写して、それから鋼に彫る。三度、同じ形を彫る。……三度も彫りゃ、その形が誰のもんか、嫌でも頭に残る」
「残ったものが、増えていったのですね」
「そうだ」
老人の声が、そこで少し落ちた。
「途中から、分かってきた。同じ客が、違う商会の印を、何度も頼みに来るようになりゃ、馬鹿でも分かる」
「その客の名は」
「知らん」
「オトマル殿」
「ほんとうに知らんのだ。名乗らんかった。……いつも、絹みてえな声のお人が、代わりの者を寄越した」
絹。わたしは膝の上で、指を握った。
「では、四枚目を」
わたしは、最後の一枚を差し出した。ケルナーが持ってきた、あの写しの検め印。百二十年前の公証院の印。
オトマルの表情が、初めて、変わった。拡大鏡を掛け直す。灯を引き寄せる。台に肘をつく。
そして、長く、動かなくなった。
「……こいつは」
「いかがです」
「わしの手だ」
老人は、写しを台に戻した。指の先が、細かく震えていた。
「だがな、公証人さま。こいつは、商会の印じゃねえ」
「はい。公証院の、古い検め印でございます」
「そうだ。……そうなんだ」
オトマルは、両手を膝に置いた。背中の曲がりが、さっきより深くなったように見えた。
「商会の印なら、なくすこともあらあな。直してくれ、で通る。だが、公証院の百二十年前の印を、誰が、なんのために、直させる」
オトマルは、拡大鏡の革紐を、指で弄んだ。
「百二十年前の印なんてもんは、もう、この世に押される先がねえんだ。あの時分の紙は、みんな庫の中だ。……庫の中の紙に、いまさら押す必要はねえ」
「では、押す先は」
「これから作る紙よ」
老人は、こちらを見ずに言った。
「古く見せかけて、これから作る紙。それしかねえ。……そんなこた、彫りながら、分かっとった」
「なんのため、だとお思いになりました」
「思ったさ。思ったから」
声が、詰まった。
「……あの晩の型は、二度と彫らんと決めとった」
彫り師オトマルの登場です。第四話・第十話・第十八話・第三十五話と積み重ねてきた「左肩が深く沈む」押し目の、出どころに辿り着きました。
左利きを殴られて右に直された。直されても、彫り出しの一鑿目だけは左から入る。四十年直らなかった癖が、そのまま四枚の紙をつないでいます。
この人は、嘘をつきません。見て分かる者に嘘をついてどうする、と言います。偽印を彫ってきた老人が、いちばん誠実な口をきくのが、この回でいちばん書きたかったところです。
そして最後の一行。「あの晩」を、この人は覚えています。次話、その記憶を消しに来る手が動きます。四十年直らなかった癖が証しになる形がお好きな方、評価で一押しを。




