第42話:同じ手の、同じ癖
席を守る手立てを考える前に、やっておくべきことが一つあった。あの写しを、偽だと証すことだ。
いまのわたしは「検めえない紙は先例にできない」と言えただけで、「偽である」とは言えていない。言えていないから、ケルナーはまだ、あの紙を持っている。
正本と突き合わせられないなら、別の道から行く。紙ではなく、手から。
「ミルテ。ハンネス親方の綴りを」
フォークト商会の偽の商会印。バルツァー商会の受領書の偽印。クレメンスの偽の合意書。そして、ケルナーの写しの検め印。
四枚とも、左肩が沈んでいる。同じ職人が彫った印だ。その職人を見つけて、彫ったと言わせれば、写しは偽になる。
「でも、ユスティーナ様。偽印を彫る人が、彫りましたって言いますか?」
「言うでしょうね」
「ええっ」
「彫った本人でなければ言えないことが、印には必ずございますの。……そして、言えることを黙っている職人は、たいてい、腕の悪い職人ですわ」
「彫り師は、罪に問われる立場だけれど、いちばん罪の軽い立場でもあるの。命じた者がいるから彫った、と言えるもの。……問題は、生きて見つけられるかどうかだわ」
わたしは、四枚の押し目を、もう一度並べた。偽の印を追うのに、いちばん確かな道は、印そのものではない。印を頼んだ人だ。
フォークト商会。バルツァー商会。どちらの偽印も、押されたのは市井向けの証文だった。貴族の紙ではない。
(——市井へ流れる偽印を、侯爵家の家令が直に頼みに行くかしら。)
行かない。絹の物腰の人は、路地へは行かない。だから、あいだに誰かがいる。
「ハンネス親方のところへ行きます」
金物工房は、鑢の音でいっぱいだった。エーミルが、少し背が伸びたような顔で、鞴を踏んでいる。
「検認人さま。……あ、いや、公証人さまだったな。えれえ出世で」
「同じ人間ですわ。親方、伺いたいことがございます」
わたしは、フォークト商会の偽印の写しを見せた。
「この印を捺した証文、親方のところに来る前は、どこを回ってきたのでしょう」
ハンネスは、太い指で押し目をつまむようにして、灯へかざした。この人は字は苦手だが、金物の肌を見る目は王都でも上のほうだ。
「そりゃあ、組合の書役でさ」
「書役は、印を持っていますか」
「持ってねえ。商会の印は、商会のもんだ。……けどな」
ハンネスが、鑢を置いた。
「妙な話を、聞いたことがある。印が欠けたり、なくしたりしたときにさ。組合を通さねえで、直してくれるところがあるって」
「どこで」
「西の、革屋の裏あたりだって話でさ。おれァ、行ったこたァねえよ。まっとうな工房は、行かねえ」
西の路地。マレーネの竈がある方角だ。
その足で、パン屋へ寄った。マレーネは、粉だらけの手を前掛けで拭きながら出てきた。
「革屋の裏? ああ、あの角の」
「ご存じですの」
「知ってるも何も。看板の出とらん店がありますよ。じいさんが一人で、なんか彫っとる。うちのおっ母さんの代からいますからね、もう三十年か、四十年か」
「どんな方です」
「気難しいねえ。でも、悪い人じゃない」
わたしは、聞き返しそうになった。偽の印を彫る者は、悪い人だ。そう思って歩いてきた。歩いてきた道の途中で、字の読めない寡婦が、あっさりそれを崩す。
マレーネは、粉のついた指で頬を掻いた。
「うちの亭主が死んだとき、墓に置く木の札をね、あのじいさんが彫ってくれたんですよ。銭は要らんて。……字が読めんあたしの代わりに、名前を、きれいに彫ってくれてね」
わたしは、そのまま、しばらく動けなかった。
「銭を、取らずに」
「ええ。妙な人でしょ」
偽の印を彫って金を取ってきた手が、字の読めない寡婦の亭主の名を、無償で彫っている。
(——人は、そんなに、きれいに分かれないのだわ。)
夕暮れの西の路地は、革を鞣す匂いがした。道幅は荷車一台ぶん。両側の家が上へ張り出して、空が細い帯になっている。洗い物の水が石畳の窪みに溜まり、そこだけ夕焼けを映していた。
黒地に白襟の装束は、この路地では目立ちすぎる。わたしは外套の前を合わせて、襟を隠した。公証院の装束で来たら、扉は開かない。
角を曲がると、看板の出ていない店があった。板戸は閉まっている。けれど、隙間から、細い光が漏れていた。中から、規則正しい音がしていた。
こつ、こつ、こつ。
小さな鑿が、硬いものを削る音。三つ打っては、少し置く。三つ打っては、少し置く。急がない手だ。
わたしは、しばらく、その音を聞いていた。この音の主が、十年前、父を嵌めた紙の印を彫った。そして、マレーネの亭主の名前を彫った。
ミルテが、わたしの袖口を指先でつまんだ。
「ユスティーナ様。……叩きます?」
わたしは、首を振った。こういう扉は、叩いてはいけない。
わたしは、懐から羽根ペンと紙を出して、その場で一行だけ書いた。
——明日の朝、検めていただきたい印がございます。公証人ユスティーナ・フォン・ヴェッセル。
板戸の隙間に、それを差し込んだ。
中の音が、止まった。
偽印の出所を追う回です。紙から追えないなら、手から追う。左肩が沈む押し目の癖を、第四話から積み上げてきた四枚で束ねます。
ハンネスとマレーネという、第一部で救った市井の人たちの伝手だけで、ここまで辿り着きます。ユスティーナが積んできたのは証拠だけではなく、人の縁でもありました。
そして彫り師の像。偽印で金を取ってきた手が、字の読めない寡婦のために、亭主の名を無償で彫っている。悪人を憎むだけの話にしたくなかったので、この一段はどうしても入れたかったところです。
叩かずに、一行だけ書いて差し込む。紙で人に触れるのが、この人のやり方です。




