第41話:席を、数える
勝った翌朝は、負けた翌朝より、よく眠れない。婚約を破棄されたころから、そうだった。詰めたあとには必ず、詰め返しが来る。来る前に、こちらから数えに行くほうがいい。
わたしは免状の写しを一通作って、それを持って公証院の登記係へ行った。廊下にはまだ朝の冷えが残っていて、石の壁が、足音を短く返した。
「古庫の開扉について、定めを拝見したいのです」
「開扉、でございますか」
若い係が、露骨に嫌な顔をした。
「あれは、その、めったに」
「めったに、で結構です。定めがあるはずですわ」
出てきたのは、薄い綴りだった。院則の付則にあたる、古い定め書き。開いた頁の墨が、灯の下で茶色くなっていた。読んで、わたしは、椅子の上で背筋を伸ばした。
——古庫を開くには、三本の鍵を要す。王家、公証院総裁、並びに最古の鍵を預かる家。
ここまでは、ライナルトから聞いたとおりだ。問題は、その次の一行だった。
——ただし、総裁の職、空しきときは、立会席の過半の推挙をもって、これに代う。
「……ミルテ」
「はい」
「立会席というのは、いくつあるの」
ミルテが、登記係に訊きに走った。戻ってきたときには、少し息が上がっていた。
「十一席です! 全部で、十一」
「過半は」
「六です」
わたしはしばらく、その数を口の中で転がした。十一席。過半は六席。
そして、公証院総裁の椅子は、空いている。
(——ドロテウスを、罷免したから。)
背中が、すうっと冷えた。わたしが暴いた。罷免された。だから椅子が空いた。空いたから、この抜け道が生きた。
三本の鍵のうち一本は、いま、集められる。
「……ミルテ。紙と墨を。全部、持ってきて」
立会席は、世襲だ。百二十年前、古庫を作ったときに、当時の名家十一家へ配られた。以来、家に付いて回っている。
どの家が、いま、どの席を持っているか。それは公証院の登録簿に載っている。載っているが、誰も見ない。何の役にも立たない格式だからだ。
役に立たない格式は、安く買える。いや、買うのではない。譲らせるのだ。買えば売買の証文が残り、額が残る。譲渡なら、借財の整理の付け足しとして、末尾の一条に沈められる。
誰も、末尾は読まない。
わたしは登録簿の当該巻を、一頁ずつ書き写した。ミルテが数を読み上げ、ベンノが名を照合した。三人がかりで、半日かかった。
登録簿の紙は、古い順に色が濃い。譲渡の書き込みだけが、新しい墨で、青みを残している。頁をめくるたび、その青が、ぽつり、ぽつりと増えていった。
書き上がった表を前に、わたしたちは、しばらく誰も口をきかなかった。十一席のうち。
第一席、モルゲンシュテルン侯爵家。もとより自家の席。
第四席、旧ゾンネンベルク伯爵家。三年前、借財の整理と引き換えに譲渡。譲渡先、モルゲンシュテルン侯爵家。
第七席、フランケ子爵家。一昨年、譲渡。同じく。
第九席、旧レーヴェ男爵家。去年。同じく。
「……四つ」
ミルテの声が、掠れていた。
「四つ、あの家です」
「そうね」
「あと、二つ」
わたしは、頷いた。
「あと二つで、扉は開くわ」
残る七席のうち、五席は、そもそも家が絶えていて、席が宙に浮いている。行使する者がいない席は、数に入らない。実際に生きているのは、二席だけだった。
第三席、ヴァント家。
第十一席、バルシュミーデ侯爵家。
わたしはその二つの名を、指で押さえた。ヴァント。あの実直な両替商だ。もとは男爵家だったのが、代を重ねて商いに転じた。銀鉱山の二重担保に騙されて、わたしが救済した。
バルシュミーデ。言うまでもない。
「お嬢様」
ベンノが、静かに言った。
「クレメンス様が、縋りに来られた件でございます」
「ええ」
「モルゲンシュテルン家がバルシュミーデ家に差し向けた融通契約。あの第九条」
「返済滞納のとき、立会席を譲渡する」
あのとき、わたしはクレメンスに言った。次の一枚は読みなさい、と。彼は読んで、あの融通を断った。断ったから、まだ、席は残っている。
(——わたし、あのとき、知らずに、扉を守っていたのだわ。)
そして、ヴァント。わたしが救った小店の主。もし彼が救われず、店が傾いていたら。慈悲深いお方が、うんと安い利で、金を回しに行っていただろう。
背筋の冷えが、腹のあたりまで下りてきた。この人は、十年前から、席を数えている。
譲渡は三年前、一昨年、去年。近ごろのことに見える。けれど、正本を抜かせたのは十年前だ。順番が逆なのではない。先に、扉の中身を空にしておいたのだ。
中身を空にしてから、扉の鍵を集める。開けたときに、都合の悪いものが出てこないように。
ドロテウスに正本を抜かせたのも、沈む家に金を回すのも、市井にまで手を伸ばすのも、全部、同じ一つの表の上で起きている。
「ベンノ」
「はい」
「わたし、この方を、悪い人だと思っていなかったの」
「は」
「遠くにいる、顔のない、大きな家だと思っていたわ。……違うのね。この方は、ちゃんと、数えているの。わたしと同じように」
わたしは、表を巻いて、紐をかけた。
「同じ数え方をする相手には、同じ数え方で勝つしかございませんわ」
第二部の盤面を、ここで全部お見せします。
古庫を開ける鍵は三本。ところが総裁の椅子が空いているとき、立会席の過半でそれに代えられる——そして総裁の椅子を空けたのは、ほかならぬユスティーナ自身でした。第一部の勝利が、そのまま第二部の穴になります。
十一席、過半は六席、モルゲンシュテルン家はすでに四席。残って生きているのはヴァント家とバルシュミーデ家の二席だけ。どちらも、ユスティーナが第二十話・第二十一話で、知らないまま守っていた席です。
「この方は、ちゃんと数えている」。敵を大きな影ではなく、同じ紙の上で数を数える一人の人間として見た瞬間から、この勝負が始まります。盤面が開いてぞくりとした方、ブックマークで最後までご一緒ください。




