第40話:不在を、証します
封を切る。中に入っていたのは、一枚だった。
——ユスティーナ・フォン・ヴェッセル。右の者、口述の試問に合格せるにより、公証人の免状を授く。
ミルテが、悲鳴のような音を出した。ベンノは何も言わずに、机の隅を両手で支えていた。支えていないと立てない、という支え方だった。
わたしはその一枚から、目を離せずにいた。父の名は、どこにも無い。
十年、わたしが書いた紙には、いつも父の名義が要った。父の名の陰にわたしの検め印を針先ほどに打って、それで通してきた。誰にも見えない場所に、自分がいた。この紙には、わたしの名しか無い。
(……お父様。わたし、表に、出ましたわ。)
その日の午後、わたしは新しい紙を広げた。白布を敷き、燭台を四つ。ミルテが灯を足す。ベンノが墨を磨る。書き出しは、何度も考えていた。
——公証人ユスティーナ・フォン・ヴェッセル、左のとおり検めて、これを証す。
第一。王家並びにモルゲンシュテルン侯爵家の婚姻に関する取り決め、その正本の在るべき場所は、公証院原本庫最奥、古庫の棚十七である。院の目録に、そう記されている。
第二。古庫の受入目録は、庫の外の受入所において、庫の管理者とは別の係が綴じる。すなわち庫の中身と、この目録は、互いに独立している。
第三。その受入目録には、十年前の或る晩、棚十七より正本一通が持ち出され、同じ晩、棚十七へ別の正本一通が納められた旨が、同一の筆跡で記されている。
第四。納められた一通の表題は、ヴィルデローゼ伯爵家並びにハルツ男爵家、婚姻に関する取り決め、である。
第五。その晩より本日に至るまで、棚十七より何物かが持ち出された記録は、無い。
わたしはそこで羽根ペンを置き、指を組んだ。ここから先が、この紙の背骨だ。
——よって、棚十七には、ヴィルデローゼ伯爵家並びにハルツ男爵家の取り決めが在る。院の目録は同じ棚に王家の取り決めが在ると記すが、両者は同一の棚に同時に在りえない。目録は自らに対して、二つの異なることを述べている。
——公証人は庫の扉を開かずして、これを述べうる。開けずに述べうることのみを、ここに述べた。
——すなわち。王家並びにモルゲンシュテルン侯爵家の婚姻に関する取り決めの正本は、公証院原本庫に、存在しない。
書き終えて、日付を入れた。それから外套の内から、黒檀の印章を取り出した。
父から譲られた印。柄の底板が二重になっていて、十年前の符牒の覚え書きが、あの中に眠っていた。父が娘に遺した、たった一つの武器。
印を構えて、一拍おいた。署名の前に必ず一拍おく、あの灰青の目の人の癖が、いつのまにかわたしにも移っている。名で書いた最初の一枚を、いちばん先に読んでもらうなら——あの人がいい。
わたしは末尾の余白に、検め印を打った。針先ほどの、小さな印。
十年、隠れるために打ってきた印を、今日は名乗るために打った。
王宮の書記官室に着いたのは、翌朝だった。卓の上にはまだ、あの写しが置いてあった。ケルナーが丁寧に直していった、あの位置のまま。
そしてケルナーその人が、そこにいた。今日も当たり前のような顔で。
「おはようございます、検認人どの」
「おはようございます。——公証人でございます」
絹の声が、一拍遅れた。
「……は」
わたしは、免状を卓に置いた。コンラート書記官長が、椅子から腰を浮かせた。
「通ったのか」
「はい。昨日付けで」
「おお……いや、めでたい。めでたいが、しかし、日取りが」
「その件で、参りました」
わたしは、二枚目の紙を置いた。書記官長が、それを読み始める。半分ほどで、読む速さが落ちた。三分の二で、指が止まった。最後まで読んで、顔を上げた。
「……これは」
「不在の公証でございます」
「不在の——」
「王家とモルゲンシュテルン家の婚姻の取り決めの正本は、公証院に存在いたしません。庫の扉は、開けておりません。開けずに証せることだけを、証しました」
ケルナーが、卓に一歩近づいた。初めて、この人の足音がした。
「お待ちくださいませ。庫を検めもせず、無いと仰せになるのは」
「検めました。目録を」
「目録は、庫ではございません」
「はい。ですから、庫については何も申しておりません」
わたしは、ケルナーを見た。
「わたくしが証したのは、庫の中身ではなく、院の目録が、自分自身に嘘をついている、ということでございます。……ケルナー殿。目録は、公証院の紙でございます。侯爵家の紙ではございません」
絹がわずかに、ほつれた。
「先日、あなた様は仰いました。無いものを誰かが隠したと言うなら、その誰かを紙で示せ、と」
「……申しました」
「示せておりません。まだ」
わたしは、正直に言った。
「隠した者の名は、この紙に書いておりません。書けないからです。書けないことを書かないのが、公証人でございます」
ケルナーがわずかに、息をついた。安堵したのだと思う。だから、続けた。
「ですが、隠された、ということは、書けました」
安堵が、消えた。
「書記官長様」
わたしは、向き直った。
「前文の先例に倣い、の一行についてでございます」
「う、うむ」
「倣うべき先例の正本は、存在いたしません。存在しない紙に倣うことは、できません。……ここにございます写しは、正本と突き合わせることができぬ以上、真偽を検めえない紙でございます」
「真偽が検められぬなら、真かもしれぬではございませんか」
ケルナーが、言った。わたしは、頷いた。
「はい。真かもしれません。ですから、偽だとは申しておりません」
振り向いて、まっすぐ言った。
「——検めえない紙を、先例にすることは、できないと申し上げております」
書記官室から、羽根ペンの音が消えた。コンラートが、長い息を吐いた。それから卓の上の写しを、初めて自分の手で持ち上げた。
「……前文から、先例に倣い、を落とす。条項は、一つずつ定める」
「はい」
「ヴェッセル嬢。いや——公証人ヴェッセル。書けるな」
「書きます」
書記官長の手から、写しが、卓の縁を滑って落ちた。ケルナーが、それを拾った。
絹の物腰がそのときだけ、無かった。膝を折るのが早すぎて、裾が乱れた。拾い上げる指が、紙の端を強く掴んで、飴色の縁にはっきりと皺を作った。百二十年、大切に守ってきた家宝の扱い方では、なかった。
(……ああ。)
わたしはその手つきを、静かに見ていた。
(あなた方、この紙が、惜しくないのですね。)
第二部、最初の区切りです。
免状に、父の名はありません。十年、父の名義の陰で、針先ほどの検め印を隠れるために打ってきたユスティーナが、今日、名乗るために同じ印を打ちました。この作品でいちばん書きたかった場面の一つです。
そして「不在の公証」。庫は開けていません。開けずに証せることだけを証した——だから崩れません。隠した者の名は書けないから書かない、けれど「隠された」ことは書けた。ここの線引きが、この人の強さだと思っています。
最後、落ちた写しを拾うケルナーの手つき。百二十年守ってきた家宝を、あんなふうには掴みません。
次話から、その「惜しくない紙」を作らせた家の、集めているものを数えにまいります。




