第38話:目録は、二度語る
詰所へ帰る道すがら、わたしは、同じ問いを繰り返していた。石畳の窪みを、爪先が何度も拾った。扉は開かない。中は見られない。ならば、中を見ずに、中を語れる紙は、どこにあるか。
——一度、やっている。古庫の受入目録。あれは、庫の中に綴じられていない。庫の外の受入所で、別の係が綴じる。誰がいつ何を入れ、誰がいつ何を出したか。扉を開けずに、出入りだけを見られる紙。
あのときは、それで「父の失脚の晩、正本が一枚抜かれ、別の一枚が納められた」ことを立てた。けれど、あのときのわたしは、抜かれたほうしか見ていなかった。
「ミルテ!」
「はいっ」
「受入所へ行きます。灯を余分に」
受入所は、原本庫の手前にある、天井の低い部屋だ。庫の中には入れなくても、ここまでは入れる。紙を守るのに、二重の仕組みを作った人がいる。中身を管理する者と、出入りを記す者を、別にした。片方が嘘をつけば、もう片方と食い違う。百年前の誰かが、人を信じずに設計した。
わたしは、その誰かに、心の中で礼を言った。受入所の綴りは、年ごとの重い革表紙で、床から天井まで並んでいる。十年前の巻を出してもらうのに、係の老人が梯子を二度架け替えた。革の背から埃が落ちて、灯の中で舞った。
「検認人さま、この巻は、去年もお調べになりましたな」
「ええ。今度は、逆から読みます」
「逆から」
「抜かれた紙ではなく、納められた紙のほうを」
あの晩の頁は、指がもう覚えている。亥の刻、来庫の記録。子の刻、棚十七より正本一通、持出し。同刻、棚十七へ正本一通、納入。
去年、わたしはここで止まった。持出しの一行に、目が奪われていたから。今度は、納入の行を読む。
納められた一通にも、当然、表題が書いてある。目録は几帳面だ。何を入れたかを書かずには済ませない。わたしは、その行に灯を寄せた。
——ヴィルデローゼ伯爵家並びにハルツ男爵家、婚姻に関する取り決め、正本一通。
「……ミルテ。登録簿を」
「はいっ」
ヴィルデローゼ伯爵家。ハルツ男爵家。どちらも、聞いたことのない家ではない。むしろ、よく知っている。
どちらも、とうに絶えている家だ。
「ユスティーナ様、ありました。ヴィルデローゼ伯爵家……あ」
ミルテの声が、途中で止まった。
「どうしたの」
「この家、この婚姻の……ええと、二十二年前に、御当主が亡くなって、跡継ぎがいなくて、家名が絶えています」
「ハルツ男爵家は」
「……三十年前に、絶えています」
わたしは、椅子の背に、ゆっくりともたれた。(——なるほど。そういうことだったのね。)
棚を空にすれば、目録の帳尻が合わなくなる。だから、代わりに一通を納める。納めるなら、何でもいい——わけではない。誰かが「この取り決めについて調べたい」と言い出したら、当事者が出てきて話がややこしくなる。
だから、絶えた家の婚姻の取り決めを選んだ。誰も探しに来ない紙。誰も、無くて困らない紙。
絶えた家の紙は、王都に山ほどある。相続も争いも起きないから、百年でも眠っている。それを一通、棚へ移す。目録の数は合う。庫の重さも変わらない。誰かが数を数えに来ても、何も見つからない。
(——上手いこと。ほんとうに、上手いこと。)
わたしは、その周到さに、少しだけ感心してしまった。感心してから、腹が立った。これだけの知恵を、この人たちは、隠すことに使っている。
「ミルテ。これがどういうことか、分かる?」
「……えっと。棚十七には、いま、ヴィルデローゼ家の紙が、入っている」
「そう」
「でも、目録には、王家とモルゲンシュテルン家の紙が在り、って書いてある」
「そう」
ミルテの顔が、ゆっくり赤くなった。
「同じ棚に、違う紙が、二枚あることになってます!」
「そのとおりよ」
わたしは、指で二つの行を押さえた。
目録は、二度、語っている。
一度目は「棚十七に、王家の取り決めが在り」。二度目は「棚十七へ、ヴィルデローゼ家の取り決めを納めた」。どちらも、同じ受入所の、同じ係の、同じ筆跡で書かれている。
そして、その後の十年、棚十七から何かが持ち出された記録は、一つもない。
「——扉を、開けずとも」
わたしは椅子を引いて、立った。脚が、石の床を鳴らした。
「棚十七に、王家の取り決めが無いことは、証せます」
ベンノが、湯呑みを取り落とした。四十年の老書記が物を落としたのを、わたしは初めて見た。
「お嬢様。それは、つまり」
「目録が、自分で自分に嘘をついているのよ。庫の中を見なくても、目録の中だけで、辻褄が合わなくなる」
わたしは、羽根ペンを取った。手が、少し震えていた。嬉しさで震えたのは、ずいぶん久しぶりだった。
「不在の公証を、いたします」
「……不在の、でございますか」
「ええ。或るものを在ると証すのではなく、無いものを、無いと証す紙を」
わたしは、書きかけて、そこで手を止めた。
院則第十二条。免状なき単独起草の禁止。不在の公証は、検認人の権では出せない。免状を持つ公証人でなければ、この紙は書けない。
壁の貼り紙を見た。ミルテが毎朝なぞって、隅の薄くなった、あの紙を。
免状審査、口述試問。
——三日後だった。
反撃の起点です。扉は開かない。ならば扉を開けずに中を語れる紙を探す——第二十三話で一度使った手を、今度は逆から使います。抜かれたほうではなく、納められたほうを読む。
棚十七に納められていたのは、絶えた二つの家の婚姻の取り決めでした。誰も探しに来ない紙、無くて誰も困らない紙。十年前、それを選んだ人の周到さが、そのまま尻尾になります。
目録が二度語り、二度目が一度目に嘘をつく。庫の中を見ずに、庫の中を証す道が、これで開きました。
ただし、その紙を書けるのは免状持ちの公証人だけです。口述試問は、三日後。逆から読む一手に膝を打った方、評価で背中を押していただけると嬉しいです。




