↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄? ご自由に。ただし違約条項は執行させていただきます 〜「地味な文書係」と捨てられた令嬢、その婚約契約書を書いたのはわたしです〜  作者: 白石アリア


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/48

第37話:先例に、倣う

 王宮の書記官室にその写しが回ったのは、わたしが検分を終えた、その翌々日だった。わたしより先に、届いていた。


「見事なものだな」


 コンラート書記官長は、卓の上の写しを、遠くから眺めていた。触らない。触らない人は、たいてい、責めを負いたくない人だ。


「モルゲンシュテルン侯爵家より、王家の御慶事のためにと、無償でお貸しくださった。……これで、前文が書ける」


「書記官長様」


「なんだ」


「その写しは、偽でございます」


 書記の一人が、羽根ペンを持ったまま顔を上げた。書記官長の後ろで、若い書記が二人、羽根ペンを止めてこちらを見ている。


「……根拠は」


「封蝋の押し目に、癖がございます。左の肩が深く沈む押し方。同じ癖の偽印が、これまでに三つ出ております。フォークト商会、バルツァー商会、そして、バルシュミーデ家が持ち出した偽の合意書」


「三つとも、そなたが偽と断じたものか」


「はい」


「その三つは、何と突き合わせて断じた」


 喉の奥が、詰まった。


「……原本と、突き合わせました」


「では、この写しは。何と突き合わせる」


 答えられなかった。コンラートは、初めてわたしの目を見た。責めている目ではなかった。むしろ、困っている目だった。


「ヴェッセル嬢。わしは、そなたを疑っておらん。そなたの検めが、この十年で王国いちばんだということも、承知しておる」


「恐れ入ります」


「だがな。……わしの手元にあるのは、そなたの見立てと、侯爵家の紙だ。見立ては紙に載らん」


 載らない。そのとおりだ。わたしがこの十年、何百回も、依頼人に言ってきたことだ。あなたの記憶は正しいでしょう、けれど、紙に載っていません、と。


「御慶事の日取りは、動かせん。北辺の使者は、もう街道を発っておる。……先例が要る。先例が無ければ、前文が書けん。前文が書けねば、取り決めが調わん」


「前文を、書かぬという道もございます」


「なに」


「先例に倣い、の一行を削るのです。倣わずとも、条項を一つずつ定めれば、取り決めは調います。むしろ、そのほうが確かでございます」


 コンラートは、目を伏せた。


「……それは、わしの一存では、決められん」


「どなたのご一存でございましょう」


 書記官長は、答えなかった。この人は、不正はしない。ただ、誰の言葉かを言わない。言えば、その人を敵に回す。四十年、そうやって椅子を守ってきた人の目だ。


「一枚も無いよりは、一枚あるほうが、と」


「そうだ」


 コンラートは疲れた顔で、椅子に沈んだ。


「……そなた、誰かに、同じことを言われたな」


「はい。二日前に」


 背後で、扉が開いた。音は、しなかった。ただ、光の入り方が変わったので、分かった。


「お邪魔をいたします」


 絹の声。ケルナーが当たり前のような顔で、書記官室に立っていた。


「侯爵家より、写しの取り扱いについて、お伺いに参上いたしました。……おや。検認人どの」


 わたしは、会釈だけを返した。


「検認人どのが、当家の写しを偽と仰せとか」


「王宮の紙は、風のように伝わりますので」


 ケルナーが、目を細めた。笑ったのだろう。


「無礼を承知で、申し上げます。検認人どのは、当家の写しの、どこが偽とお思いでございましょう」


「封蝋の押し目です」


「なるほど。では、本物の押し目は、いかようで」


「……」


「本物をご覧になったことが、おありでございますか」


「ございません」


「では、何と比べて、違うと仰せに」


 書記の羽根ペンが、一本、床に落ちた。


「ケルナー殿」


 コンラートが、割って入ろうとした。ケルナーはそのほうへ深く一礼して、しかし、止まらなかった。


「わたくしは、検認人どのを責めておりません。むしろ、お気の毒に存じております」


 絹が、するりと巻きついてくる。


「当家が写しを差し上げなければ、この御慶事は、先例なきまま進むところでございました。当家は、埋めたのでございます。空いた棚を」


「空けたのは、どなたです」


 言ってしまった。言った瞬間に、これは負けだと分かった。証しのない言葉は、ただの悪口だ。


 ケルナーは、悲しげに眉を寄せてみせた。


「——検認人どの。無いものを、誰かが隠したのだと仰せなら、その誰かを、紙でお示しくださいませ。それが、あなたさまのお仕事のはずでございます」


 正しい。この男の言うことは、いつも、全部、正しい。


「一枚も無い方が悪いのです、検認人どの」


 ケルナーは深く一礼して、書記官室を出ていった。去り際に、卓の上の写しを、そっと元の位置へ直していった。誰も頼んでいないのに、丁寧に。


 残されたコンラートは、しばらく、何も言わなかった。


「ヴェッセル嬢」


「はい」


「……十日だ」


 顔を上げると、書記官長は、卓の木目を見ていた。


「十日のあいだ、前文を空けておく。それより先は、わしの椅子が持たん」


 それが、この人にできる精いっぱいだった。不正はしない人が、保身の縁で踏みとどまって差し出した、十日。


「……ありがとうございます」


 わたしは王宮の廊下を、ゆっくり歩いて出た。磨かれた床に、黒地に白襟の装束が映っている。負けた顔をしていないか、確かめてから、門をくぐった。


 門の外に、執行局の馬車が停まっていた。


 こちらは、呼んでいない。御者は行き先も訊かずに扉を開けた。中は、空だった。


 乗ってから、座面がまだ温かいことに気づいた。


(——ええ。おっしゃるとおりですわ。)


(無いのが悪い。ですから、作りにまいります。無いものを、無いと証す紙を。)

ユスティーナが、はじめて公の場で言い負かされます。しかも、相手が言っていることは全部正しい。

 「本物をご覧になったことがおありですか」「では、何と比べて違うと」——第一部でユスティーナが敵に突きつけてきた問いが、そっくりそのまま返ってきます。同じ武器で刺されるのが、いちばん痛いです。

 コンラート書記官長は悪人ではありません。ただ、手元にあるのが「見立て」と「紙」なら、紙を採るしかない立場の人です。見立ては紙に載らない——ユスティーナ自身が依頼人に言い続けてきた言葉でした。

 次話から、反撃に入ります。扉を開けずに、空であることを証す道が、一つだけあります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。