第37話:先例に、倣う
王宮の書記官室にその写しが回ったのは、わたしが検分を終えた、その翌々日だった。わたしより先に、届いていた。
「見事なものだな」
コンラート書記官長は、卓の上の写しを、遠くから眺めていた。触らない。触らない人は、たいてい、責めを負いたくない人だ。
「モルゲンシュテルン侯爵家より、王家の御慶事のためにと、無償でお貸しくださった。……これで、前文が書ける」
「書記官長様」
「なんだ」
「その写しは、偽でございます」
書記の一人が、羽根ペンを持ったまま顔を上げた。書記官長の後ろで、若い書記が二人、羽根ペンを止めてこちらを見ている。
「……根拠は」
「封蝋の押し目に、癖がございます。左の肩が深く沈む押し方。同じ癖の偽印が、これまでに三つ出ております。フォークト商会、バルツァー商会、そして、バルシュミーデ家が持ち出した偽の合意書」
「三つとも、そなたが偽と断じたものか」
「はい」
「その三つは、何と突き合わせて断じた」
喉の奥が、詰まった。
「……原本と、突き合わせました」
「では、この写しは。何と突き合わせる」
答えられなかった。コンラートは、初めてわたしの目を見た。責めている目ではなかった。むしろ、困っている目だった。
「ヴェッセル嬢。わしは、そなたを疑っておらん。そなたの検めが、この十年で王国いちばんだということも、承知しておる」
「恐れ入ります」
「だがな。……わしの手元にあるのは、そなたの見立てと、侯爵家の紙だ。見立ては紙に載らん」
載らない。そのとおりだ。わたしがこの十年、何百回も、依頼人に言ってきたことだ。あなたの記憶は正しいでしょう、けれど、紙に載っていません、と。
「御慶事の日取りは、動かせん。北辺の使者は、もう街道を発っておる。……先例が要る。先例が無ければ、前文が書けん。前文が書けねば、取り決めが調わん」
「前文を、書かぬという道もございます」
「なに」
「先例に倣い、の一行を削るのです。倣わずとも、条項を一つずつ定めれば、取り決めは調います。むしろ、そのほうが確かでございます」
コンラートは、目を伏せた。
「……それは、わしの一存では、決められん」
「どなたのご一存でございましょう」
書記官長は、答えなかった。この人は、不正はしない。ただ、誰の言葉かを言わない。言えば、その人を敵に回す。四十年、そうやって椅子を守ってきた人の目だ。
「一枚も無いよりは、一枚あるほうが、と」
「そうだ」
コンラートは疲れた顔で、椅子に沈んだ。
「……そなた、誰かに、同じことを言われたな」
「はい。二日前に」
背後で、扉が開いた。音は、しなかった。ただ、光の入り方が変わったので、分かった。
「お邪魔をいたします」
絹の声。ケルナーが当たり前のような顔で、書記官室に立っていた。
「侯爵家より、写しの取り扱いについて、お伺いに参上いたしました。……おや。検認人どの」
わたしは、会釈だけを返した。
「検認人どのが、当家の写しを偽と仰せとか」
「王宮の紙は、風のように伝わりますので」
ケルナーが、目を細めた。笑ったのだろう。
「無礼を承知で、申し上げます。検認人どのは、当家の写しの、どこが偽とお思いでございましょう」
「封蝋の押し目です」
「なるほど。では、本物の押し目は、いかようで」
「……」
「本物をご覧になったことが、おありでございますか」
「ございません」
「では、何と比べて、違うと仰せに」
書記の羽根ペンが、一本、床に落ちた。
「ケルナー殿」
コンラートが、割って入ろうとした。ケルナーはそのほうへ深く一礼して、しかし、止まらなかった。
「わたくしは、検認人どのを責めておりません。むしろ、お気の毒に存じております」
絹が、するりと巻きついてくる。
「当家が写しを差し上げなければ、この御慶事は、先例なきまま進むところでございました。当家は、埋めたのでございます。空いた棚を」
「空けたのは、どなたです」
言ってしまった。言った瞬間に、これは負けだと分かった。証しのない言葉は、ただの悪口だ。
ケルナーは、悲しげに眉を寄せてみせた。
「——検認人どの。無いものを、誰かが隠したのだと仰せなら、その誰かを、紙でお示しくださいませ。それが、あなたさまのお仕事のはずでございます」
正しい。この男の言うことは、いつも、全部、正しい。
「一枚も無い方が悪いのです、検認人どの」
ケルナーは深く一礼して、書記官室を出ていった。去り際に、卓の上の写しを、そっと元の位置へ直していった。誰も頼んでいないのに、丁寧に。
残されたコンラートは、しばらく、何も言わなかった。
「ヴェッセル嬢」
「はい」
「……十日だ」
顔を上げると、書記官長は、卓の木目を見ていた。
「十日のあいだ、前文を空けておく。それより先は、わしの椅子が持たん」
それが、この人にできる精いっぱいだった。不正はしない人が、保身の縁で踏みとどまって差し出した、十日。
「……ありがとうございます」
わたしは王宮の廊下を、ゆっくり歩いて出た。磨かれた床に、黒地に白襟の装束が映っている。負けた顔をしていないか、確かめてから、門をくぐった。
門の外に、執行局の馬車が停まっていた。
こちらは、呼んでいない。御者は行き先も訊かずに扉を開けた。中は、空だった。
乗ってから、座面がまだ温かいことに気づいた。
(——ええ。おっしゃるとおりですわ。)
(無いのが悪い。ですから、作りにまいります。無いものを、無いと証す紙を。)
ユスティーナが、はじめて公の場で言い負かされます。しかも、相手が言っていることは全部正しい。
「本物をご覧になったことがおありですか」「では、何と比べて違うと」——第一部でユスティーナが敵に突きつけてきた問いが、そっくりそのまま返ってきます。同じ武器で刺されるのが、いちばん痛いです。
コンラート書記官長は悪人ではありません。ただ、手元にあるのが「見立て」と「紙」なら、紙を採るしかない立場の人です。見立ては紙に載らない——ユスティーナ自身が依頼人に言い続けてきた言葉でした。
次話から、反撃に入ります。扉を開けずに、空であることを証す道が、一つだけあります。




