第36話:左肩が、沈んでいる
ケルナーが帰ってから、わたしは三刻、その写しを見ていた。燭台を四つに増やした。角度を変え、光を斜めに入れ、蝋の峰に落ちる影の長さを測った。ミルテが二度、湯を替えに来た。二度目に来たとき、ベンノが「湯より灯を」と言って、燭台をもう二つ足した。
押し目の左肩。封蝋に印章を押すとき、人は必ず、どこかに癖のある力をかける。右利きなら右下が深くなるのがふつうだ。ところが、この蝋は、左の肩が深く沈んでいる。
わたしは、抽斗から古い綴りを出した。ハンネスの工房の証文についていた、フォークト商会の偽の商会印。叔父の、バルツァー商会の受領書についていた偽印。そしてクレメンスが持ち出した『婚約解消に関する相互免除の合意書』——公開検分で偽と断じた、あの一枚。
どれも、左肩が沈んでいる。三つ並べて、四つ目に、この写しを置いた。
押し目の縁を、細い針の背でなぞる。蝋の峰の高さを、四枚とも測った。左の肩から谷へ落ちる傾きが、四枚とも、同じ角度でついている。
人の手の癖は、真似られる。けれど癖を真似た手には、真似た緊張が出る。線が硬くなる。この四枚には、それが無い。硬くない。ということは、真似ではない。
(——同じ、手だわ。)
商会の印を彫った者と、公証院の古い検め印を彫った者が、同じ。しかも一人は、いまも王都のどこかで、彫っている。
「……お嬢様」
ベンノの声が、うしろから降ってきた。
「お顔の色が、悪うございます」
「ベンノ。これ、偽物よ」
「さようでしょうな」
「紙は本物なの。百年、ちゃんと老いている。墨も本物。書体も、書式も、正しい。……蝋だけが、新しい手で押されているの」
古い紙を手に入れて、正しい書式で写して、最後に偽の検め印を押す。いちばん高くつくのは、紙だ。だから偽造師は、たいてい紙で足が出る。この写しは、そこに金をかけている。かけられる家が、後ろにいる。
それに、書式だ。百二十年前の書式を間違えずに写すには、当時の紙を何十枚も読んでいなければならない。市井の偽造師には、そんな紙は回ってこない。読めるのは、院の内にいた者だけだ。
(——院の中の手。あのとき、そう思ったのだったわ。あれから、半年。まだ、同じところに立っている。)
いいえ。同じではない。あのときは、相手の名を知らなかった。いまは知っている。知っていて、届かない。それは、別の苦しさだった。
「では、そう申し上げればよろしい」
「それが、できないの」
わたしは、目の上を手のひらで押さえた。
「ベンノ。偽物だと言うには、本物と突き合わせなければならないのよ。写しが偽だと証すには、正本が要る。……その正本が、庫の奥で、無いの」
燭台の芯が、ぱちりと爆ぜた。
「原本は、嘘をつけません、と申し上げたのは、わたしですわ」
公開検分の場で、わたしはそう言った。あのときは、原本庫に原本があった。だから勝てた。
「原本が無ければ、写しの嘘も、証せない」
言ってしまうと、それは、思っていたよりずっと重かった。できることは、いくつかある。
蝋の押し目が他の偽印と同じ、と言うことはできる。けれど、それは「同じ工房の手が触れた」までしか言えない。百二十年前の公証院の検め印を当時の職人が彫り、その孫弟子が同じ癖で彫り続けている——そう反論されたら、押し返す紙がない。
紙の年代を言うことはできる。けれど紙は本物だ。書式の誤りを突くこともできる。けれどこの写しは、書式を間違えていない。間違えていないどころか、当時の言い回しの癖まで拾っている。書いた者は、百二十年前の紙を、何十通も読んでいる。
(間違えていないのが、いちばん、腹立たしいのだわ。)
ひとつだけ、心に引っかかっているものがある。鍵の預かりについての条項が、無い。
けれどそれを突くには、「本物にはあったはずだ」と言わねばならない。無いものが、本物には在った、と。証せない。証せるはずがない。誰も、本物を読んでいないのだから。
——いいえ。わたしは、顔を上げた。
一人だけ、いる。
十年前、古庫の細工を見つけて、告発しようとして、逆に嵌められた人。あの晩、棚十七から何が抜かれたのかを目録の上でではなく、この目で知っていた人。北の田舎の庵で、いま、静かに暮らしている人。
(……お父様。)
わたしはその考えを、そっと引き出しにしまった。いまはまだ、早い。父を引き出せば、父はまた、あの家の前に立つことになる。十年かけて雪いだ名を、もう一度、賭けさせることになる。
その前に、こちらでやれることを、全部やる。わたしは羽根ペンを取り、白紙に一行だけ書いた。
——この写しは、偽である。ただし、いま、それを証す紙が、わたしの手元に無い。
書いて、日付を入れて、自分の検め印を打った。証せないことを、証せないと書いて残す。父が教えてくれた、いちばん地味で、いちばん大事な作法だ。
(書面がなければ、公証人は無力。……ええ、そうですわ。だから書面を、作りにまいります。)
第一部でユスティーナが勝ってきた戦い方が、ここで一度、通用しなくなります。
偽物だと分かっている。癖まで見えている。それでも、突き合わせる正本が庫の奥で消えているせいで、偽だと言えない——「書面がなければ、公証人は無力」という、この作品がずっと守ってきた線引きが、いちばん痛い形で効きました。
そして左肩の沈み。第四話・第十話・第十八話で積んできた押し目の癖が、四枚目でついに王家の紙の上に並びました。彫った手は、まだ王都のどこかにいます。
証せないことを、証せないと書いて残す。父から受け継いだ作法が、後で効いてきます。悔しさごと積み上げていく形にお付き合いくださる方、ブックマークをひとつ。




