第35話:善意という名の写し
絹は、音を立てずに歩く。
その男が詰所の敷居をまたいだとき、ミルテが墨壺を取り落とした。物音がしなかったせいだ。
「検認人どの。ご無沙汰をいたしております」
モルゲンシュテルン侯爵家の家令、ケルナー。最後に会ったのは雨の晩だった。あの人は、ライナルトの十年前の傷を持ち出して、わたしを黙らせようとした。そして、失敗して帰った。
「お約束は、いただいておりませんが」
「はい。ですから、こうして、待たせていただきます」
ケルナーは、戸口の脇の粗末な長椅子に、当たり前のように腰を下ろした。侯爵家の家令が、市井の詰所の、徒弟が座る椅子に。
わたしは、その座り方を見て、少し寒くなった。(——へりくだるのが、上手いのだわ。この方は。)
半刻、そのまま働いた。ケルナーは一言も催促しなかった。ミルテが茶を出すと、丁寧に礼を言って、飲み干した。その半刻のあいだ、わたしは一枚も進まなかった。
急かされれば、断れる。待たれると、断れない。この人はそれを知っていて、だから、待つ。ドロテウスは声で押してきた。この人は、沈黙で押してくる。どちらが厄介かといえば、後のほうだ。
ベンノが奥から出てきて、ケルナーを一瞥し、それから、わたしのほうを見た。何も言わなかったが、四十年の老書記の目は、はっきりとこう言っていた。——茶を、二杯目は出しますな。
「……お待たせいたしました」
「とんでもございません。人の仕事場を眺めるのは、よいものでございます」
ケルナーは立ち上がって、懐から、麻布に包んだものを取り出した。
「王家の婚姻の取り決めを、お書きになると伺いました」
「なぜ、それを」
「王宮の紙は、風のように伝わりますので」
微笑んだまま、包みを机に置く。
「前文に、先例に倣い、とお入れになるとか。……ところが、その先例の正本が、古庫からお出しになれぬ。お困りでいらっしゃいましょう」
わたしは、答えなかった。
「当家に、写しがございます」
麻布が、静かに開かれた。中から現れたのは、古い羊皮紙だった。四つ折りの癖がついて、縁が飴色になっている。表に、百二十年前の書式で、婚姻の取り決めの表題が書かれていた。
「百二十年前、当家に姫君をお迎えいたしました折の、写しでございます。代々、当家の庫で守ってまいりました」
「……なぜ、いま」
「お困りの方に、お貸しするためでございます」
ケルナーは、掌を上に向けてみせた。
「当家は、この百二十年、王家の縁につながる家として、古庫の鍵をお預かりしてまいりました。庫を開けぬのは、当家の勝手ではございません。鍵が三本そろわぬからでございます。……当家に開ける力があれば、とうにお開けしております」
「開けられぬ代わりに、写しを、と」
「さようでございます。写しでは足りぬと仰るなら、それまでのこと。ですが、一枚も無いよりは、一枚あるほうが、王家の御慶事は前へ進みましょう」
正しい。
言っていることは、全部、正しい。
だからこそ、気持ちが悪い。
「拝見しても」
「どうぞ、どうぞ。むしろ、検めていただかねば」
わたしは、白布を敷いてから、写しを引き寄せた。素手では触らない。指の脂は、百年後の検めを狂わせる。ミルテが、燭台を二つ、無言で運んできた。教えていない。この子は、わたしが本気で紙を読むときの手順を、いつのまにか覚えている。
ケルナーが、それを見ていた。見ていることを隠さずに、見ていた。
紙は上等だ。手ざわりが均一で、虫食いも少ない。書写の手も悪くない。角ばった古い書体を、几帳面に写している。
毛穴の粗い側は、きちんと裏へ回してある。裁ち口はわずかに毛羽立っていて、百年ぶんの手擦れが縁に沿って丸くなっている。折り癖は四つ折り。折り目の谷に埃が溜まり、山の側だけ色が抜けている。長く畳んで仕舞われていた紙の、正直な老い方だ。
墨も悪くない。鉄墨が年を経て茶へ寄り、線の縁からわずかに滲んで紙の繊維へ食い込んでいる。書いてすぐの墨は、こんな滲み方をしない。
(——ここまでは、本物のように、老いているのだわ。)
条文も読んだ。婚儀の日取り、化粧料の額、供の数。百二十年前の言葉づかいで、丁寧に並んでいる。
ただ、一つだけ。この写しには、当たり前のように、無いものがあった。
(……鍵の、預かりについての条項が、無い。)
古庫の最古の鍵を、モルゲンシュテルン家が世襲で預かる。始まりは、この婚姻のはずだ。ならば鍵の話がどこかに書いてあってしかるべきなのに、写しは触れていない。触れていないのは、書き落としたからか。それとも。
そして、末尾。封蝋があった。当時の公証院の印。写しであることを証す、副本の検め印。
わたしは、蝋に顔を近づけた。燭台を引き寄せる。角度を変える。もう一度、変える。
背筋の、いちばん下のところが、冷たくなった。
「……いかがでございましょう」
ケルナーが、絹の声で言った。
「よい写しでございましょう」
「ええ」
わたしは、顔を上げなかった。
「たいそう、よく、できております」
押し目の、左肩が。
沈んでいた。
ケルナーが再登場します。この人の怖さは、脅すところではなく、正しいことしか言わないところです。困っている人に手を貸す。断れば冷たいのはこちら。そういう形にしてから、差し出してきます。
徒弟の椅子に当たり前に腰を下ろす家令、半刻黙って待つ家令。へりくだりは、いちばん安上がりな圧です。
そして最後の三行。第四話と第十八話で積んできた「左肩が深く沈む」押し目の癖が、ここで、王家の紙の上に出ました。同じ手が彫った印です。




