↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄? ご自由に。ただし違約条項は執行させていただきます 〜「地味な文書係」と捨てられた令嬢、その婚約契約書を書いたのはわたしです〜  作者: 白石アリア


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/48

第34話:竈と、蝶番

 開かない扉のことばかり考えていると、字が痩せる。父がそう言っていた。行き詰まったら、目の前の、いちばん小さな紙を読め、と。


 だからその朝、詰所の戸口に立った金物工房の親方を見て、わたしは少しほっとした。


「検認人さま。……こいつの、証文を、見てやってくだせえ」


 ハンネスの後ろに、痩せた少年が立っていた。十三か、十四か。指の関節がやたらと大きい。鑢を握る手だ。


「うちの徒弟でさ。エーミルってんですが、こいつの年季証文が、どうも、おかしい」


「拝見いたします。——ミルテ」


「はい!」


「あなたが先に読みなさい」


 ミルテの背が、跳ねるように伸びた。わたしはわざと窓のほうを向いて、湯を淹れた。見られていると、人は読めない。


 しばらくして、ミルテが小さな声で言った。


「……年季は、六年、って書いてあります。それは、ふつうです」


「ええ」


「賃銀の定めも、あります。休みの定めも。……全部、あります」


 それから、ミルテは長く黙った。


「ユスティーナ様」


「なあに」


「わたし、たぶん、読めていません」


 わたしは、湯呑みを手の中で回すのをやめた。


「どうして、そう思うの」


「全部あるのに、なんだか、気持ちが悪いんです。……でも、どこがって、言えません」


 ——第二条。読めなかった紙を、読めなかったと言う。


(ああ。この子、もう、守っているのだわ。三日で。)


「よく言えました。では、一緒に読みましょう」


 わたしは、証文を光にかざした。


「年季は六年。始まりの日は、ここに書いてある。……ミルテ。終わりの日は、どこ?」


 ミルテが、紙に鼻をつけるようにして探した。探して、探して、顔を上げた。


「……ありません」


「そうね。無いわね」


「でも、六年って、書いてあります!」


「六年は、長さよ。長さは、始まりが決まって初めて終わりが決まるの。ここには始まりの日が書いてある。……でも、六年をどこから数えるかが、書いていない」


 わたしは、証文の一行を指した。


「一人前と親方が認めし日より、六年。——親方が認めなければ、六年は永久に始まらないの」


 エーミルの喉が、ごくりと鳴った。ハンネスは、しばらくその一行を見ていた。それから、真っ赤になって怒鳴った。


「なんだこりゃあ! おれァ、こんなつもりで書いた覚えは……」


「親方が書いたのではないでしょう」


「……書いてもらったんでさ。組合の、書役に」


「その書役は、他所の工房でも、同じ雛形をお使いでは」


 ハンネスの顔から、血の気が引いた。徒弟を縛る一行はたいてい、悪意ではなく雛形で広がる。誰かが一度うまい文句を思いついて、書役がそれを写し、また写す。十年も経てば、誰も、どこから来た一行なのか知らない。誰も読まないから、消えない。


 悪人を一人捕まえても、この手の紙は減らない。減らすには、雛形のほうを直すしかない。


「直しましょう。書き替えではなく、追い書きで。……エーミル。あなたも、ここに署名なさい」


「お、おれもですかい」


「あなたの年季ですもの。あなたの署名のない紙で、あなたの六年を決めさせてはいけません」


 少年が震える手で、初めて自分の名を書いた。


 鑢を握る指は、羽根ペンには太すぎた。エーミルは三度書き損じて、三度とも、わたしが新しい紙を出した。四枚目で、ようやく最後まで崩れずに書けた。


「……こんな、下手な字でも、効きますかい」


「効きます。上手い下手は、効き目に関わりません。あなたが書いた、ということだけが要るのです」


 組合の書役へ回す追い書きの控えを、ミルテが二通、清書した。一通は工房へ、一通は詰所へ。控えを取るのは、疑うためではない。忘れるためだ。書いておけば、覚えていなくていい。


 その晩、マレーネがパンを持って来た。西の路地で、亡くなったご亭主の竈をひとりで守っている人だ。


「検認人さま。うちの竈、まだ、燃えとりますよ」


「よろしゅうございました」


「あんたが証文の、あの加筆を見つけてくれたおかげでさ。……あたしゃ字が読めんから、いまだに、何がどうだったんだか分からんけどね」


「見つけたのは、ミルテですわ」


 ミルテが、盆を落としそうになった。マレーネは腰を下ろして、それから、声をひそめた。


「そういやね、検認人さま。近ごろ、路地のほうで、妙な噂がありましてね」


「噂」


「傾いたお家に、うんと安い利で、金を回してくださるお方がいなさるんだと。慈悲深いお方だって、みんな、拝むように言うんですよ」


 わたしは、パンをちぎる手を止めた。


「そのお方の、お名前は」


「モルゲンシュテルンさま、とか」


 竈の火は、燃えている。蝶番は、直った。


 なのに部屋の中が、急に冷えた気がした。


(——市井にまで、伸びているのだわ。あの家の、慈悲が。)


 マレーネが帰ったあと、残りのパンを油紙に包んで、脇へ置いた。誰に渡すとも決めずに、そうした。


 ちなみに叔父オイゲンのバルツァー商会の一件は、先月、片がついた。見本一車の不履行を梃子に、前払いの五千ターレルのうち、千八百だけを取り戻した。全額は無理だった。


 叔父はそれでも、深く頭を下げて帰っていった。取り戻せた分より、取り戻せなかった分のほうを、あの人はきっと長く覚えているだろう。


 そのほうがいい。読まずに署名した紙の重さは、忘れないほうがいい。

開かない扉の前で行き詰まったら、いちばん小さな紙を読む——父ゲルハルトの教えです。

 「六年」は長さであって、終わりの日ではない。親方が認めなければ永久に始まらない年季。悪意ではなく雛形で広がる一行が、いちばん多くの人を縛ります。

 そしてミルテの「わたし、たぶん、読めていません」。前話で交わした一筆の第二条を、この子は三日で守りました。弟子の成長は、こういう形でしか書きたくないと思っています。

 最後にマレーネが運んできた噂。慈悲深いお方の手は、市井にまで伸びていました。雛形の一行で人が縛られる怖さが刺さった方、評価で一押しいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。