第34話:竈と、蝶番
開かない扉のことばかり考えていると、字が痩せる。父がそう言っていた。行き詰まったら、目の前の、いちばん小さな紙を読め、と。
だからその朝、詰所の戸口に立った金物工房の親方を見て、わたしは少しほっとした。
「検認人さま。……こいつの、証文を、見てやってくだせえ」
ハンネスの後ろに、痩せた少年が立っていた。十三か、十四か。指の関節がやたらと大きい。鑢を握る手だ。
「うちの徒弟でさ。エーミルってんですが、こいつの年季証文が、どうも、おかしい」
「拝見いたします。——ミルテ」
「はい!」
「あなたが先に読みなさい」
ミルテの背が、跳ねるように伸びた。わたしはわざと窓のほうを向いて、湯を淹れた。見られていると、人は読めない。
しばらくして、ミルテが小さな声で言った。
「……年季は、六年、って書いてあります。それは、ふつうです」
「ええ」
「賃銀の定めも、あります。休みの定めも。……全部、あります」
それから、ミルテは長く黙った。
「ユスティーナ様」
「なあに」
「わたし、たぶん、読めていません」
わたしは、湯呑みを手の中で回すのをやめた。
「どうして、そう思うの」
「全部あるのに、なんだか、気持ちが悪いんです。……でも、どこがって、言えません」
——第二条。読めなかった紙を、読めなかったと言う。
(ああ。この子、もう、守っているのだわ。三日で。)
「よく言えました。では、一緒に読みましょう」
わたしは、証文を光にかざした。
「年季は六年。始まりの日は、ここに書いてある。……ミルテ。終わりの日は、どこ?」
ミルテが、紙に鼻をつけるようにして探した。探して、探して、顔を上げた。
「……ありません」
「そうね。無いわね」
「でも、六年って、書いてあります!」
「六年は、長さよ。長さは、始まりが決まって初めて終わりが決まるの。ここには始まりの日が書いてある。……でも、六年をどこから数えるかが、書いていない」
わたしは、証文の一行を指した。
「一人前と親方が認めし日より、六年。——親方が認めなければ、六年は永久に始まらないの」
エーミルの喉が、ごくりと鳴った。ハンネスは、しばらくその一行を見ていた。それから、真っ赤になって怒鳴った。
「なんだこりゃあ! おれァ、こんなつもりで書いた覚えは……」
「親方が書いたのではないでしょう」
「……書いてもらったんでさ。組合の、書役に」
「その書役は、他所の工房でも、同じ雛形をお使いでは」
ハンネスの顔から、血の気が引いた。徒弟を縛る一行はたいてい、悪意ではなく雛形で広がる。誰かが一度うまい文句を思いついて、書役がそれを写し、また写す。十年も経てば、誰も、どこから来た一行なのか知らない。誰も読まないから、消えない。
悪人を一人捕まえても、この手の紙は減らない。減らすには、雛形のほうを直すしかない。
「直しましょう。書き替えではなく、追い書きで。……エーミル。あなたも、ここに署名なさい」
「お、おれもですかい」
「あなたの年季ですもの。あなたの署名のない紙で、あなたの六年を決めさせてはいけません」
少年が震える手で、初めて自分の名を書いた。
鑢を握る指は、羽根ペンには太すぎた。エーミルは三度書き損じて、三度とも、わたしが新しい紙を出した。四枚目で、ようやく最後まで崩れずに書けた。
「……こんな、下手な字でも、効きますかい」
「効きます。上手い下手は、効き目に関わりません。あなたが書いた、ということだけが要るのです」
組合の書役へ回す追い書きの控えを、ミルテが二通、清書した。一通は工房へ、一通は詰所へ。控えを取るのは、疑うためではない。忘れるためだ。書いておけば、覚えていなくていい。
その晩、マレーネがパンを持って来た。西の路地で、亡くなったご亭主の竈をひとりで守っている人だ。
「検認人さま。うちの竈、まだ、燃えとりますよ」
「よろしゅうございました」
「あんたが証文の、あの加筆を見つけてくれたおかげでさ。……あたしゃ字が読めんから、いまだに、何がどうだったんだか分からんけどね」
「見つけたのは、ミルテですわ」
ミルテが、盆を落としそうになった。マレーネは腰を下ろして、それから、声をひそめた。
「そういやね、検認人さま。近ごろ、路地のほうで、妙な噂がありましてね」
「噂」
「傾いたお家に、うんと安い利で、金を回してくださるお方がいなさるんだと。慈悲深いお方だって、みんな、拝むように言うんですよ」
わたしは、パンをちぎる手を止めた。
「そのお方の、お名前は」
「モルゲンシュテルンさま、とか」
竈の火は、燃えている。蝶番は、直った。
なのに部屋の中が、急に冷えた気がした。
(——市井にまで、伸びているのだわ。あの家の、慈悲が。)
マレーネが帰ったあと、残りのパンを油紙に包んで、脇へ置いた。誰に渡すとも決めずに、そうした。
ちなみに叔父オイゲンのバルツァー商会の一件は、先月、片がついた。見本一車の不履行を梃子に、前払いの五千ターレルのうち、千八百だけを取り戻した。全額は無理だった。
叔父はそれでも、深く頭を下げて帰っていった。取り戻せた分より、取り戻せなかった分のほうを、あの人はきっと長く覚えているだろう。
そのほうがいい。読まずに署名した紙の重さは、忘れないほうがいい。
開かない扉の前で行き詰まったら、いちばん小さな紙を読む——父ゲルハルトの教えです。
「六年」は長さであって、終わりの日ではない。親方が認めなければ永久に始まらない年季。悪意ではなく雛形で広がる一行が、いちばん多くの人を縛ります。
そしてミルテの「わたし、たぶん、読めていません」。前話で交わした一筆の第二条を、この子は三日で守りました。弟子の成長は、こういう形でしか書きたくないと思っています。
最後にマレーネが運んできた噂。慈悲深いお方の手は、市井にまで伸びていました。雛形の一行で人が縛られる怖さが刺さった方、評価で一押しいただけると励みになります。




