第33話:棚十七は、空いている
照合請求の書式は、暗記している。十年、父の名義で何百通と書いてきた。
けれどこの一通を書くのに、わたしは羽根ペンを三度置いた。
「棚十七、でございますね」
登録係の若い書記が請求書を読み上げて、それから顔を上げた。
「あの、検認人さま。棚十七は、古庫でございます」
「存じております」
「古庫は……その、開きませんが」
「開けろとは申しておりません。在るか否かを、目録で答えていただければ結構です」
その三日、わたしは前文を書かなかった。
書けなかったのではない。倣う先が分からぬまま倣うと書くのは、行き先を知らずに馬車へ乗るのと同じだ。ミルテには他の案件の下読みを言いつけ、自分は院則の巻を繰って、先例という言葉が院の内でどう扱われてきたかを一つずつ拾った。
拾うほどに、嫌な気持ちになった。院則は「先例に倣う」の効き目を、どこにも限っていない。限っていない言葉は、いちばん強い。
返事は、三日後に来た。
——棚十七、王家並びにモルゲンシュテルン侯爵家の婚姻に関する取り決め、正本一通、在り。
わたしはその一行を、ずいぶん長く見ていた。
(在り、ですって。)
在る。目録には、在る。
けれど、わたしは知っている。あの受入目録を。十年前の晩、古庫のある棚から正本が一枚抜かれ、別の一枚が納められた。父が見つけたのは、その細工だった。父はそれを告発しようとして、逆に「原本紛失の咎」で失脚させられた。
抜かれたのは、王家の古い婚姻の取り決め。
そして目録にはいまも、在り、と書いてある。
「……在ることにしてある、の間違いですわ」
声に出したら、思ったより低い声が出た。
「無いものを在ると書いた紙が、この国でいちばん立派な庫の、いちばん奥にある。……なんて上等な嘘かしら」
「お嬢様」
ベンノが、湯気の立つ器を置いた。
「湯を召し上がってから、お怒りなさいませ。冷えたまま怒ると、字が荒れます」
器の湯は、生姜と蜂蜜の匂いがした。四十年の老書記は、わたしが怒ると必ずこれを出す。父が同じことをしていたからだ。
飲みながら、わたしは考えた。
無い、と証すのは、在る、と証すよりずっと難しい。在るなら一枚出せば済む。無いことは、庫の中をすべて見せてもらわねば言えない。そして庫は開かない。
(——だから、抜いたのだわ。)
燃やせば、灰が残る。持ち出して、目録に在りと書かせておけば、誰も、無いことを証せない。
その晩、執行局へ回った。
ライナルトは、まだ灯を落としていなかった。机の上に封札の控えを広げて、一枚ずつ日付を検めている。この人は部下がやった仕事を、必ず自分の目でもう一度見る。十年前に一度、見なかったせいで無実の織物商を潰した。それ以来ずっと、そうしている。
「遅い」
「殿下こそ」
「終わらん」
わたしは、目録の写しを机に置いた。ライナルトは灰青の目を一度だけ落として、それだけで全部読んだ。
「棚十七」
「はい」
「無いのだろう」
「……はい」
ライナルトは、椅子の背にもたれた。
「執行局の権で開けられるか、と訊きに来たのだな」
「はい」
「開けられん」
短かった。この人はできないことを、長く説明しない。
「古庫の鍵は三本ある。王家に一本、公証院総裁に一本、そして最古の一本はモルゲンシュテルン家が世襲で預かっておる。三本そろわねば開かん。総裁の椅子は空いておるし、モルゲンシュテルンは、まず出さん」
「王命でも、でございますか」
「王命で開くなら、十年前に開いておる」
その一言が、いちばん重かった。
父の再調査は、まさにそこで止まったのだ。あの日、王命の使いは、鉄の扉の前で引き返した。
「……あの家の庫の奥には、俺も手が届かん」
ライナルトがめずらしく、それを言った。
できない、と口に出すのを、この人はいちばん嫌う。嫌うことを言ったということは、本当にできないのだ。
「殿下」
「なんだ」
「わたくし、婚姻の取り決めの前文に、先例に倣い、と書けと申しつかっております」
「聞いた」
「倣えと命じられた先例が、庫の奥にあって、しかも、無いのです」
ライナルトが、初めて眉を寄せた。この人が眉を寄せるのは、条項に穴を見つけたときだ。
「……順序が、おかしいな」
「はい」
「先に先例に倣えと言い、後から、その先例は出せぬと言う。——それは、倣う先を、こちらで用意する者がいるということだ」
わたしは、頷いた。
同じことを、馬車の中で考えていた。考えて、考えないことにして、それでも戻ってきてしまった。
「殿下。もし、どなたかが、こう仰ったら」
「言ってみろ」
「——原本がお入り用でしたら、当家に、写しがございますが」
執行局の窓の外で、風が鳴った。
ライナルトは、答えなかった。答える必要が、なかったからだ。
わたしが辞するとき、ライナルトは立ち上がって扉のところまで来た。そこで止まった。送るとは言わなかった。ただ、外套の襟が立っているかどうかだけを一度見た。
帰り道、詰所の灯が遠くに見えたころ、わたしはようやく、自分が何をいちばん恐れているのかに気づいた。
偽の写しが出てくることではない。偽と分かっていても、それを偽だと証せないことだ。
(書面がなければ、公証人は無力。……お父様もここで、止まったのね。)
黒檀の印章が外套の内で、ひやりと重かった。
ユスティーナが初めて、条文ではどうにもならない壁に、正面から当たります。
目録には「在り」と書いてある。けれど無い。無いものを在ると書いた紙が、十年、いちばん立派な庫の奥で守られてきた——第一部で暴いたのは、そのほんの入口でした。
そして順序の話。先に「先例に倣え」と言い、後から「その先例は出せぬ」と言う。ライナルトが指摘したこの歪みが、第二部の縦軸です。倣う先を用意する者が、必ずいます。




