↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄? ご自由に。ただし違約条項は執行させていただきます 〜「地味な文書係」と捨てられた令嬢、その婚約契約書を書いたのはわたしです〜  作者: 白石アリア


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/48

第33話:棚十七は、空いている

 照合請求の書式は、暗記している。十年、父の名義で何百通と書いてきた。


 けれどこの一通を書くのに、わたしは羽根ペンを三度置いた。


「棚十七、でございますね」


 登録係の若い書記が請求書を読み上げて、それから顔を上げた。


「あの、検認人さま。棚十七は、古庫でございます」


「存じております」


「古庫は……その、開きませんが」


「開けろとは申しておりません。在るか否かを、目録で答えていただければ結構です」


 その三日、わたしは前文を書かなかった。


 書けなかったのではない。倣う先が分からぬまま倣うと書くのは、行き先を知らずに馬車へ乗るのと同じだ。ミルテには他の案件の下読みを言いつけ、自分は院則の巻を繰って、先例という言葉が院の内でどう扱われてきたかを一つずつ拾った。


 拾うほどに、嫌な気持ちになった。院則は「先例に倣う」の効き目を、どこにも限っていない。限っていない言葉は、いちばん強い。


 返事は、三日後に来た。


 ——棚十七、王家並びにモルゲンシュテルン侯爵家の婚姻に関する取り決め、正本一通、在り。


 わたしはその一行を、ずいぶん長く見ていた。


(在り、ですって。)


 在る。目録には、在る。


 けれど、わたしは知っている。あの受入目録を。十年前の晩、古庫のある棚から正本が一枚抜かれ、別の一枚が納められた。父が見つけたのは、その細工だった。父はそれを告発しようとして、逆に「原本紛失の咎」で失脚させられた。


 抜かれたのは、王家の古い婚姻の取り決め。


 そして目録にはいまも、在り、と書いてある。


「……在ることにしてある、の間違いですわ」


 声に出したら、思ったより低い声が出た。


「無いものを在ると書いた紙が、この国でいちばん立派な庫の、いちばん奥にある。……なんて上等な嘘かしら」


「お嬢様」


 ベンノが、湯気の立つ器を置いた。


「湯を召し上がってから、お怒りなさいませ。冷えたまま怒ると、字が荒れます」


 器の湯は、生姜と蜂蜜の匂いがした。四十年の老書記は、わたしが怒ると必ずこれを出す。父が同じことをしていたからだ。


 飲みながら、わたしは考えた。


 無い、と証すのは、在る、と証すよりずっと難しい。在るなら一枚出せば済む。無いことは、庫の中をすべて見せてもらわねば言えない。そして庫は開かない。


(——だから、抜いたのだわ。)


 燃やせば、灰が残る。持ち出して、目録に在りと書かせておけば、誰も、無いことを証せない。


 その晩、執行局へ回った。


 ライナルトは、まだ灯を落としていなかった。机の上に封札の控えを広げて、一枚ずつ日付を検めている。この人は部下がやった仕事を、必ず自分の目でもう一度見る。十年前に一度、見なかったせいで無実の織物商を潰した。それ以来ずっと、そうしている。


「遅い」


「殿下こそ」


「終わらん」


 わたしは、目録の写しを机に置いた。ライナルトは灰青の目を一度だけ落として、それだけで全部読んだ。


「棚十七」


「はい」


「無いのだろう」


「……はい」


 ライナルトは、椅子の背にもたれた。


「執行局の権で開けられるか、と訊きに来たのだな」


「はい」


「開けられん」


 短かった。この人はできないことを、長く説明しない。


「古庫の鍵は三本ある。王家に一本、公証院総裁に一本、そして最古の一本はモルゲンシュテルン家が世襲で預かっておる。三本そろわねば開かん。総裁の椅子は空いておるし、モルゲンシュテルンは、まず出さん」


「王命でも、でございますか」


「王命で開くなら、十年前に開いておる」


 その一言が、いちばん重かった。


 父の再調査は、まさにそこで止まったのだ。あの日、王命の使いは、鉄の扉の前で引き返した。


「……あの家の庫の奥には、俺も手が届かん」


 ライナルトがめずらしく、それを言った。


 できない、と口に出すのを、この人はいちばん嫌う。嫌うことを言ったということは、本当にできないのだ。


「殿下」


「なんだ」


「わたくし、婚姻の取り決めの前文に、先例に倣い、と書けと申しつかっております」


「聞いた」


「倣えと命じられた先例が、庫の奥にあって、しかも、無いのです」


 ライナルトが、初めて眉を寄せた。この人が眉を寄せるのは、条項に穴を見つけたときだ。


「……順序が、おかしいな」


「はい」


「先に先例に倣えと言い、後から、その先例は出せぬと言う。——それは、倣う先を、こちらで用意する者がいるということだ」


 わたしは、頷いた。


 同じことを、馬車の中で考えていた。考えて、考えないことにして、それでも戻ってきてしまった。


「殿下。もし、どなたかが、こう仰ったら」


「言ってみろ」


「——原本がお入り用でしたら、当家に、写しがございますが」


 執行局の窓の外で、風が鳴った。


 ライナルトは、答えなかった。答える必要が、なかったからだ。


 わたしが辞するとき、ライナルトは立ち上がって扉のところまで来た。そこで止まった。送るとは言わなかった。ただ、外套の襟が立っているかどうかだけを一度見た。


 帰り道、詰所の灯が遠くに見えたころ、わたしはようやく、自分が何をいちばん恐れているのかに気づいた。


 偽の写しが出てくることではない。偽と分かっていても、それを偽だと証せないことだ。


(書面がなければ、公証人は無力。……お父様もここで、止まったのね。)


 黒檀の印章が外套の内で、ひやりと重かった。

ユスティーナが初めて、条文ではどうにもならない壁に、正面から当たります。

 目録には「在り」と書いてある。けれど無い。無いものを在ると書いた紙が、十年、いちばん立派な庫の奥で守られてきた——第一部で暴いたのは、そのほんの入口でした。

 そして順序の話。先に「先例に倣え」と言い、後から「その先例は出せぬ」と言う。ライナルトが指摘したこの歪みが、第二部の縦軸です。倣う先を用意する者が、必ずいます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。