第32話:王家の紙
「王家の……紙、でございますか」
わたしは、聞き違いを疑った。
コンラート書記官長は、机の上の束から一枚だけを抜き出して、こちらへ滑らせた。上等な羊皮紙だ。厚みが均一で、毛穴の粗い側をきちんと裏に回してある。書く前から金のかかった紙だと分かる。指を滑らせると、吸いつくように冷たかった。
「アマーリエ王女殿下の、御降嫁が決まった。お相手は北辺のフェルゼン辺境伯家。……その婚姻の取り決めを、起草せねばならん」
「それは、公証院総裁のお役目では」
「総裁の椅子は、空いておる」
ああ、と思った。ドロテウスが罷免されて、代わりを立てる審議はまだ終わっていない。ヴァルター師が総務を預かったままだ。あの気弱な老公証人に、王家の紙を書けというのは酷だろう。
わたしは、渡された羊皮紙の縁を指でたどった。裁ち口が真新しい。まだ一文字も書かれていない紙が、こんなに重く感じたのは初めてだった。
婚姻の取り決めというのは、恋文の反対側にある紙だ。二人が仲睦まじいあいだは、誰も読まない。読まれるのは、いつも、うまくいかなくなってからだ。だから、うまくいかなくなった日のことだけを考えて書く。
「そなたの名は、王命の場で三度出た」
コンラートは指を三本立てた。
「父君の冤罪を雪いだ照合。偽の合意書の断定。院則第五十二条の公開請求。……いずれも、後から誰が検めても崩れなかった。崩れぬ紙を書ける者に書かせよ、というのが、上の御意向だ」
(——上、とは、どなたのことかしら。)
わたしは、その言葉を胸の内にしまった。人が主語をぼかすとき、たいてい、そこに紙がある。
「謹んで、お受けいたします」
「よろしい」
コンラートは、目に見えて肩の力を抜いた。それから、思い出したように付け足した。
「ああ。一つ、条件がある」
(——来た。)
「前文に、先例に倣い、の一文を入れよとの仰せだ」
「先例、と申しますと」
「王家の姫が臣下の家へ降嫁なさるは、百二十年ぶりでな。前の例が一つだけある。その取り決めに倣え、ということだ」
わたしは、しばらく黙っていた。
「書記官長様。差し出がましいことを申し上げます」
「なんだ」
「前文に先例に倣い、と書くのは、条項を一つ足すよりも重うございます。倣うと書いた瞬間、その先例に書いてある全部が、この婚姻に引き移ってまいります。……中身を検めもせずに入れる言葉では、ございません」
コンラートの喉が、こくりと動いた。
「では、検めよ。それも、そなたの役目だ」
その日のうちに、わたしはアマーリエ王女に引き合わされた。
通されたのは、南に面した小さな広間だった。窓辺に刺繍枠が置いてあって、途中まで縫った白い布が張ったままになっている。図案の中ほどで糸が切れ、そこから先が空白だった。切れたのではなく、切ったのだと思った。
十八におなりだと聞いていた。想像していたよりずっと小柄で、髪を高く結い上げ、背だけが不自然にまっすぐだった。長く「そうしていなさい」と言われ続けた人の背筋の伸ばし方だ。
「ヴェッセルの娘か」
「ユスティーナ・フォン・ヴェッセルと申します。この度の取り決めの、起草を仰せつかりました」
殿下は、わたしを上から下まで見た。それから、ひどく静かな声で言った。
「わたくしは、口を挟まぬ。挟んでよい話ではないと、教えられておる」
侍女たちが、そっと目を伏せる。
——ああ。この方は、いま、自分は品物だ、と仰った。品物のほうから納品先に文句は言えぬ、と。
「恐れながら、殿下」
「なんじゃ」
「口を挟まれずとも、結構でございます。ですが、一つだけ、お答えいただきたいことがございます」
「……申せ」
「殿下は、この取り決めのどこに、御名を書かれるか、ご存じでいらっしゃいますか」
殿下の目が、初めてまばたきをした。
「……知らぬ」
「では、それをお教えするところから始めさせてくださいませ。ご自分の署名がどこに載るかを知らぬまま署名なさるのは、この国でいちばん危ないことでございます。——侯爵家の御嫡男でさえ、それで身代を一つ傾けましたので」
殿下が、目を丸くした。それから、口元をわずかに歪めた。笑いを噛み殺したときの顔だ。
「そなた、あの婚約破棄の」
「はい。その紙を書いた者でございます」
「……ふむ」
殿下は、扇を閉じた。
「では、教えよ。わたくしの名が、どこに載るのかを」
王宮を出たのは、日の傾くころだった。
馬車の中で、わたしは膝の上の写しを繰った。婚姻の取り決めの下書きは、まだ前文しかない。その前文に、たった一行、先例に倣い、と書けと言われている。
(百二十年前。臣下の家へ、姫が降嫁された。……その家は、どちらだったかしら。)
答えは、詰所へ戻ってから、公証院の登録簿を引いて、すぐに出た。
登録簿は年ごとに綴じてある。百二十年前の巻は革が硬くなっていて、開くのに手のひらで押さえつけねばならなかった。埃が舞って、ミルテがくしゃみをした。
婚姻の項。姫君の御名。降嫁先の家名。
モルゲンシュテルン侯爵家。
紙を繰るわたしの指が、そこで止まった。
その取り決めの正本は、原本庫の最奥——古庫の、棚十七に納められている、と書いてあった。
王家の紙も紙である、というのが本作の立場です。相手が王でも侯爵でも、ユスティーナの検め方は変わりません。
アマーリエ殿下は、口を挟まぬと教えられてきた方です。ユスティーナが彼女に最初に渡したのは慰めではなく「あなたの名がどこに載るか」という情報でした。守り方が、いつもこれです。
そして「先例に倣い」の一行。倣えと言われた先例は、百二十年前の、あの家の婚姻でした。棚十七——第二十三話で目録が語っていた、あの番号です。




