第31話:弟子入りの一筆
王宮の紋を捺した封書は、夜のあいだ、机の上で待っていた。
わたしは朝の光を待って、それを開けた。急ぎの用なら、使いは夜のうちに叩き起こしていったはずだ。そうしなかったということは、この紙は「明朝に読まれること」まで含めて書かれている。
(……丁寧な方が、お書きになったのだわ。)
封蝋は濃い青だった。宮内の蝋は蜜蝋の配合が違うから、爪で押すとわずかに戻る。指の腹に、まだ夜の冷たさが残っていた。
中身は短かった。三日後の朝、参内せよ。用向きは記されていない。ただ、王宮書記官長コンラート、という署名だけが、几帳面な角ばった字で並んでいた。
「お嬢様、王宮からですか」
ミルテが盆を持ったまま、爪先立ちになっている。
「用向きが書いてないの。書かない、と決めて書いてあるわ」
「それは……怖いです」
「怖いのは、書いていない紙のほうよ。これは、書かないことを選んだ紙。ずいぶん違うの」
ベンノがわたしの手から封書を取り上げて、光にかざした。四十年の老書記は、まず紙を疑うところから一日を始める人だ。
「本物ですな。透かしも、封蝋の温度も、宮内の作法どおり。……お嬢様、参内の前に、片づけておくべき紙が一つございます」
「免状の、審査ね」
「さようで」
父の名誉が回復されて、半月と少し。わたしには生まれて初めて、公証人免状の審査を受ける道が開いていた。
十年、父の名義の陰で書いてきた。院則第十二条は、免状なき単独起草を禁じている。わたしがやってきたことは、ずっと、綱の上を歩くようなものだった。
審査は三段。書式の検め、起草の実技、そして口述の試問。日取りはすでに届いていて、詰所の壁に貼ってある。ミルテが毎朝そこを通るたび、指で日付をなぞっていくものだから、紙の隅が薄くなってきた。
免状を持たない検認人は、どれだけ腕があっても、他人の名義を借りねば起草できない。借りた名義は、いつでも取り上げられる。ドロテウスがわたしを潰そうとしたとき、彼が使ったのは、まさにその穴だった。
(同じ穴で、二度は詰まされないわ。)
「四十年勤めて、免状持ちの起草を、それなりに見てまいりました」
ベンノが、めずらしく前置きを置いた。
「お嬢様の紙は、いちばん上でございます。……ただ、審査というものは、腕を見る場ではございません。腕を見せられて、面白くない者がどう振る舞うか、を見る場でございます」
「ええ。承知しているわ」
ドロテウスは罷免された。けれど彼の下で美味しい思いをしていた人たちは、罷免されていない。
その日の午後、ミルテが墨壺を抱えたまま、机の前で立ち止まった。
「あの。ユスティーナ様」
「どうしたの」
「わたし……ちゃんと、弟子にしていただきたいんです」
声が、少し震えていた。
「いままでも、置いていただいてます。写しも取らせていただいてます。でも、それは、ユスティーナ様が親切だから、で。……親切は、いつでも、やめられます」
わたしは、筆を置いた。
この子は去年、字を写すだけの見習いとして来た。いまは偽の加筆を色で見分ける。レープの証文に混じった緑がかった新しい鉄墨を、最初に見つけたのはこの子だった。
(——ああ。この子はわたしより、よほど早く、いちばん大事なことを覚えたのだわ。)
「ミルテ。あなた、いま、とても正しいことを言ったわよ」
「え」
「親切は、いつでもやめられる。約束は、やめるのに手続きが要る。……その違いが分かる子を、わたしは弟子にしたいと思っていたの」
わたしは新しい紙を引き寄せて、羽根ペンを取った。
「第一条。師は、弟子に、紙の読み方を隠さず教える」
「……ユスティーナ様?」
「第二条。弟子は、読めなかった紙を、読めなかったと言う。見栄で分かったふりをしたら、師はこれを叱る」
ミルテの目が、みるみる丸くなっていく。
「第三条。この約束を解くときは、どちらからでも、書面で。——口頭では、解けないことにいたしましょう」
「か、書面って、そんな、大げさな……」
「大げさなものですか」
わたしは顔を上げて、この子を見た。
「あなたの家は、貧しいのでしょう。もしわたしに何かあって、この詰所が畳まれたら、あなたは口約束を証すものを何も持たない。……そうならないための紙よ。これは、わたしがあなたを縛る紙ではなく、あなたがわたしを縛る紙なの」
ミルテは、しばらく黙っていた。それから盛大に、ひどい泣き方をした。
「では、こちらにご署名を。字は、あなたのいちばん丁寧な字で」
「はい……っ」
この子が生まれて初めて、自分のために署名をする。にじんだ、けれど一画も崩れていない「ミルテ」の署名を、わたしは黒檀の印章で検めた。
ベンノが、鼻を鳴らして目頭を押さえていた。四十年の老書記はこういうとき、決まって窓のほうを向く。
三日後の朝、わたしは黒地に白襟の装束を着て、王宮の門をくぐった。
公証院の廊下は羊皮紙と埃の匂いがするけれど、王宮のそれは蜜蝋と磨き粉の匂いがした。床がよく光っていて、自分の靴が映る。ここでは紙より先に、人の格が見られるのだろう。
案内の侍従は、わたしの装束を二度見た。黒地に白襟。公証院の検認人がこの廊下を歩くことは、めったにない。
書記官長コンラートは五十がらみの、痩せた男だった。角ばった字のとおりの人だ。彼はわたしを執務室に通し、扉を閉め、それから、ずいぶん長く黙っていた。
机の上には、封を切っていない書付の束が積んである。触れずとも分かる。重ねた順が、決裁の順ではない。迷った紙を、下へ下へと送っている人の机だ。
「ヴェッセル嬢。……そなたに、王家の紙を、書いてもらいたい」
第二部「原本庫の闇」、はじまりました。第一部から続けてお付き合いくださっている方、そしてここから読み始めてくださった方、ありがとうございます。
初回は、静かな一話にしました。ユスティーナが人を守る道具は、いつだって紙です。だから弟子入りも、感動の抱擁ではなく一筆で。「親切はいつでもやめられる、約束はやめるのに手続きが要る」——この作品の背骨を、ミルテがいちばん短い言葉で言ってくれました。
そして王宮からの封書。次話、ユスティーナは王家の婚姻条約という、これまででいちばん重い一枚に向き合います。第二部からもご一緒くださる方、ブックマークで席を取っておいていただけると励みになります。




