第30話:婚約破棄は、ご自由に
父の名誉が回復されて半月。公証院は大きく変わろうとしていた。
ドロテウスの去った副総裁の席には、王命で新たな検めの手が入り、原本庫の登録簿は、一枚ずつ、正しく検め直されている。総裁代理のヴァルター師は、いまや、背筋を伸ばして、記録の前に立つようになった。
そして——ある朝、わたしは、院の一室に呼ばれた。
「ユスティーナ・フォン・ヴェッセル」
王命の検め手が、一枚の書付を差し出した。
「ヴェッセル法伯家の、名誉回復にともない、公証人の免状審査をそなたに開くものとする。……もっとも審査といっても、そなたの起こした紙は、すでにこの院の誰より多く正しい。形ばかりのものになろうがな」
免状。父の名義の陰でも、叔父の名義の陰でもない。——わたし自身の名で、紙を起こす、正式な資格。
わたしは書付を、末尾の一行まで読んでから、礼をした。
「謹んでお受けいたします。……ですが審査はきちんと、いちばん難しい問いでお願いいたしますわ。形ばかりの免状では、わたしの起こす紙が、軽くなりますもの」
検め手がふっと笑った。
(お父様。……ようやくですわ。「文書係」でも「誰かの名義」でもない。わたしの名前が、紙のいちばん下に立ちます。)
その日の夕刻。書庫に父とライナルト様が、いた。
父は書架の古い綴りを、懐かしそうに繰っていた。そしてわたしとライナルト様を、交互に見て、静かに席を立った。
「わたしは庵の庭が、気になってな。……少し外の空気を」
わざとらしい口実だった。父の目元が悪戯っぽく、緩んでいた。
書庫にライナルト様と、二人。
大公は黙って、わたしの起こした検認の書き付けを、繰っていた。あの末尾の検め印を読むときだけ、目元を緩める、いつもの癖で。
「……一つ提案がある」
ライナルト様は、いつもの、事務口調で切り出した。
「執行局とあなたの間で、新しい、取り決めを結びたい」
「あら。どのような契約ですの?」
「期限は無期。……いや」
ライナルト様は、そこで言葉を切った。署名の前のあの一拍。けれど今日の一拍は、いつもよりずっと長かった。
「期限は生涯。解約の条項は——設けない」
わたしの指が止まった。
「その取り決めは業務のお話ですの?」
「いや」
灰青の目が書き付けから上がって、まっすぐ、わたしを見た。
「俺とあなたの話だ」
無表情の事務口調。世辞ひとつ言えない男。けれどその灰青の目の奥に、いつか市井の親方に見せた、あの不器用な熱が宿っていた。
「あなたの紙なら、俺は迷わず、執行できる。……あなたの隣なら、俺は迷わず、生きていける。それがどれほど、得難いことか。——俺はあなたの生涯の隣にいたい」
言葉が、出てこなかった。淑女の仮面の裏で、いつも冷たく頁を繰る指が、今日ばかりは頼りなく震えていた。
(あら。……このお方、とうとう、業務の外の言葉を。しかも解約の条項を、設けないなんて。)
(——ずいぶん、不利な契約を、持ちかけてくださいますこと。読まずに判を捺してしまいそうですわ。)
「殿下。……一つ条項の追加を」
わたしは精一杯の淑女の声で言った。声が揺れるのをこらえながら。
「『双方、相手の紙を生涯、いちばん丁寧に読むこと』。——これを第一条に加えてくださいませ。……そうすれば、この契約、謹んでお受けいたしますわ」
ライナルト様が、目を見開いた。それから——十年、機械であろうとしてきた、冷徹な執行官が、初めて、はっきりと笑った。
「……受理する」
二人の間にまだ紙は、ない。けれどその約束はどんな封蝋よりも、確かに結ばれた。
窓の外で父がわざとらしく、大きな咳払いを、していた。
その晩、わたしは一人、書庫で、黒檀の印章を灯にかざした。
半年前。夜会でわたしは「婚約破棄」を告げられた。「地味な文書係」と、嗤われて。あの日、わたしは、泣かなかった。ただ内心で頁をめくった。——「その契約書を書いたのはわたしです」と。
それから半年。わたしは自分の書いた違約条項を、執行し、偽造を暴き、父の名誉を取り戻し、そして——生涯の、隣を得た。すべて一枚ずつの紙で。
(婚約破棄は、ご自由に。)
わたしは胸の内で、あの日の続きを呟いた。
(——ですが違約条項は、執行させていただきます。感情は冷めても。署名と封蝋は、残りますもの。約束はいつだって、感情より長生きするのです。)
けれどまだ終わっていない。
わたしは机の抽斗から、一枚の写しを取り出した。ヴィンケルの私控えの、「頭巾のお方」の、二文字。そして古庫の受入目録の、あの一行——十年前の晩、抜かれたきり、戻っていない、「王家の古い婚姻の取り決め」。
開かずの鉄の扉。その向こうの闇。ドロテウスですら、駒に過ぎなかった、そのいちばん奥。
(お父様も届かなかった。わたしもまだ届かない。……けれど。)
わたしは黒檀の印章を握りしめた。父から譲られたこの印を。いつか、ミルテのような、次の誰かへ、渡していく、この印を。
(紙は、庭を覚えています。誰が耕し誰が奪ったか。……一枚残らず。)
(抜かれた一枚が、戻る日まで。この庭のいちばん奥の扉が、開く日まで。——わたしは、読み続けますわ。何度でも。)
高い窓から月の光が、差していた。書庫の床を白く静かに照らしていた。父の遺した符牒と、新しい約束とまだ開かぬ扉が、次の頁を待っていた。
その夜更け、書庫の扉を叩く音がした。王宮の紋を捺した、封書だった。
お読みいただきありがとうございます。
婚約破棄された「地味な文書係」が、実は自分の書いた契約書の起草者で、違約条項を執行し、偽造を暴き、父の名誉を取り戻し、生涯の隣を得るまで。決め台詞「その契約書を書いたのはわたしです」から始まり、タイトル「婚約破棄はご自由に、違約条項は執行させていただきます」を回収しました。ライナルトの、解約条項のない、不器用な契約も。
けれど、開かずの扉と、抜かれた「王家の古い婚姻の取り決め」、そして「頭巾のお方」の正体は、まだ、闇の中。そこへ、王宮からの封書が届きます。
物語は、第二部「原本庫の闇」へ。解約条項のない、不器用なあの契約に胸を掴まれた方。評価(★)のひとつが、この二人の先を書く力になります。次の頁で、またお会いしましょう。




