第29話:頭を下げに来る人々
父の名誉が回復された、その報せは、封札よりも速く、王都を回った。
翌日から詰所の戸口には、また、別の列ができた。今度は督促の紙を抱えた人たちでは、ない。——かつて、わたしを侮った人たちだった。
最初に来たのは、叔父オイゲンだった。
「ユスティーナ。……頼む」
バルツァー商会の一件で、一度、頭を下げた叔父は、今度は深く床につくほど、腰を折った。
「ヴェッセル家の契約が次々、綻んでおる。地代も蔵の借財も、婚儀の取り決めも……わし一人では、もう回せん。お前が繕ってくれていた紙が、いかに多かったか……いまさら、思い知った。戻って、家の紙を、また、見てくれんか」
続いて、擦り切れた外套の、クレメンスが来た。傾いたバルシュミーデ家の名代として。
「ユスティーナ。……モルゲンシュテルンの、あの融通は断った。お前の言うとおり、第九条の、鉤爪に気づいたから。だが断ったら、家はいよいよ、立ちゆかん。……お前に契約を、立て直してもらう他、ないんだ。頼む」
かつて、大広間でわたしを「地味な文書係」と嗤った男たちが、いまわたしの机の前で、頭を下げている。
わたしは、二人を見た。
(——胸のすく眺め、なのでしょうね。ほんとうは。)
(でも。ここで笑って、追い返したら。わたしは、この人たちと同じになる。読まずに判を捺す人と。感情で紙を動かす人と。)
「叔父様。クレメンス」
わたしはいつもの淑女の声で言った。
「まずはっきりと申し上げます。わたしはあなた方の家を、潰してはおりません」
「……なに?」
「わたしが抜けただけです。名も功もあなた方の名義に沈めて、繕ってきた紙から、わたしが手を引いただけ。あとはあなた方が読まずに署名してきた紙が、支え手を失って、正直に綻んだ。……わたしはなにもしていないのですわ」
二人が言葉を失う。
「わたしが奪ったのでは、ありません。あなた方の軽率がいま、あなた方に返ってきているだけ。——個人のほんの少しの軽率が、契約という制度の重さで返ってくる。それだけのことですの」
わたしは、少しだけ、声を和らげた。
「ですが。困っている紙が、目の前にあるのなら。……公証人は読みます。相手が誰であろうと」
二人が顔を上げた。
「ただし条理でです。あなた方に都合よく繕うのではありません。正しい紙に直すだけ。取れるものは取られ、払うものは払う。……それでもよろしければ。検認人として、お引き受けいたします。市井の親方の紙と、同じ、公正な検めで」
叔父は、うなだれていた。それから掠れた声で言った。
「……それでよい。それが当然だ。わしはその当然を十年、踏みにじってきた」
クレメンスも、力なく頷いた。あの傲慢の面影は、もうどこにもなかった。ただ読まずに署名した紙の、重さに、押し潰されかけた、一人の男がいるだけだった。
二人が帰っていく。その背中をミルテが、複雑な顔で見送っていた。
「お嬢様。……あんなにひどいことをした人たちを、助けて、あげるんですか」
「助けるのではないわ、ミルテ。正しい紙に直すだけ。……あの人たちが立ち直るかどうかは、これから、あの人たちが紙を読むか読まないかで決まるの。わたしはそのきっかけの、一枚を置くだけ」
「じゃあ、また読まなかったら」
「また綻ぶわ。何度でも。……紙は、正直だもの」
ミルテは考えて、なるほど、という顔をした。じわりと家々が、正されていく。派手な制裁は、ひとつも、ない。ただ軽んじられてきた紙が、正しい重さを、取り戻していく——それだけの、静かな報いだった。
その日の夕刻。
詰所の戸口に一人の老紳士が立った。
旅装の質素な外套。けれど背筋はまっすぐ。その手には見覚えのある——黒檀の印章と、対になる、古い、書架の鍵。
わたしの息が止まった。
「……お父様」
ゲルハルト・フォン・ヴェッセル。十年前、王都を追われ、北の田舎に隠棲していた父が。名誉を回復されて、いま目の前に立っていた。
「ユスティーナ」
父の声は記憶より少し、しわがれていた。けれどその穏やかな響きは、なにも、変わっていなかった。
「大きくなったな。……いや」
父の目がわたしの手の、黒檀の印章に留まった。そして目元が、くしゃりと緩んだ。
「立派な公証人になった」
わたしはこらえていたものが、あふれるのを感じた。淑女の仮面が、十年ぶりに剥がれ落ちる。
「お父様……っ」
子どものように、父の胸に飛び込んでいた。父の外套は雨と土と遠い庵の匂いがした。父の手がわたしの背をそっと叩く。あの頃と同じリズムで。
「よく辿り着いたな。……わたしの、遺した符牒まで。よく諦めなかった」
「先回りが過ぎるのですわ、お父様。……印章まで登録なさって。地図まで遺して。娘をどれだけ、働かせれば、気が済みますの」
わたしの声は、泣き笑いになっていた。父の胸で十年分の言えなかった言葉が、つかえて、うまく出てこない。
「怖かったのですわ。あなたを罪人のままには、できないのに。わたしの力では、届かないかもしれないと。……何度も諦めそうになりました」
「だが諦めなんだ」
父の大きな手が、わたしの髪を撫でた。
「わたしが遺せたのは符牒の覚え書き一枚だ。あとはぜんぶ、お前が、自分の目で自分の足で辿った。……ユスティーナ。名誉を回復してくれたのは、わたしの地図ではない。お前の十年、磨いてきた、その目だ」
父が静かに笑った。
「紙は、書いた人間の、心根まで残す。……お前になら、遺したものが、正しく読めると信じておったよ」
窓の外で王都の灯が、ひとつ、またひとつ、ともり始めていた。
じわざまぁの完成です。かつてユスティーナを侮った叔父とクレメンスが頭を下げに来る——けれど彼女は笑って追い返しもせず、条理で受ける。「わたしが潰したのではありません。あなた方の軽率が返ってきているだけ」。派手な制裁のない、静かで上品なざまぁ。
そして、十年ぶりの、父との再会。淑女の仮面が剥がれ、子どものように父の胸へ。「立派な公証人になった」——この一言のために、ユスティーナは、ここまで来ました。
次話は、第一部の最終話。ライナルトとの関係が、一歩、進みます。




