第28話:紙は、ぜんぶ覚えています
公証院の大広間は、あの審問の日と、同じように人で埋まっていた。
けれど上座に臙脂の官服は、いない。ドロテウス・ハルトゥングは、職務停止の身のまま、被審者の席に深く俯いて座っていた。かつて、この広間を見下ろした男が、今日は、見上げる側にいる。
わたしは、広間の中央に立った。傍らには、証人の席に痩せた老人。ヴィンケル。震える手を膝の上で固く握っている。壁際には黒い制服の一団。ライナルト様が、腕を組んで控えていた。
王命の検め手が宣した。
「これより先代法伯ゲルハルト・フォン・ヴェッセルの、失脚の件を公開にて検める。——十年前の『原本紛失の咎』は、真か、偽か」
わたしは息を吸った。
「検認人、ユスティーナ・フォン・ヴェッセルより、申し上げます。父ゲルハルトは原本を、紛失してなど、おりません。父は——原本が抜かれたのを見つけたのです」
広間がざわめいた。ドロテウスが俯いたまま、微かに身じろぎする。
「証しは三枚。別々の人が、別々の場所で残した紙です」
わたしは一枚目を掲げた。
「一枚目。父ゲルハルトが失脚の晩に遺した、符牒の覚え書き。——『棚十七より正本、抜かる』。父はその事実を符牒に託して、娘に遺しました」
二枚目を掲げる。
「二枚目。公証院の公式の受入目録。同じ晩、棚十七に出入りがあったと、記されています。——ただし『整理のための一時移送』と、偽って」
三枚目を掲げる。黄ばんだ粗末な紙。
「三枚目。あの晩、受入に立ち会った受入係の、私控え。身を守るためにこっそりと、正直に記されたもの。ここには——」
わたしは、一行ずつ、読み上げた。
「『子の刻。古庫より正本一枚、持ち出し。目録には整理と記させられる。同刻、古庫へ別の一枚を納め。棚は十七番』」
広間が静まり返った。
「父の符牒。公式の目録。受入係の私控え。——三枚は別々の人が、別々の思惑で、別々の場所に残しました。互いに口裏を合わせようもない。なのにぴたりと重なる。棚十七で正本が抜かれ、偽の一枚が、すり替えられた。その同じ真実を」
「で、でたらめだ!」
ドロテウスが、突然、立ち上がった。かつての蜜の声は、もうどこにもなかった。
「そのような下役の走り書きなど、証しに、なるものか! どこの、誰とも知れぬ——」
「ヴィンケルさん」
わたしは証人席へ目を向けた。
「あなたが書いたもので間違い、ありませんか」
老人は震えながら、けれど、はっきりと立ち上がった。十年、恐怖に縮んでいた背が、伸びた。
「間違いございません。……わしがあの晩、この手で書きました。副総裁ドロテウス様が頭巾のお方と、古庫へ入られ、正本を持ち出された。ゲルハルト卿は翌朝、その罪を着せられた。……わしは口を封じられ、十年、黙って、まいりました」
老人の目から涙が、こぼれた。
「もう……もう、黙って、おられません。ゲルハルト卿は罪人ではございません。あの晩、庫を荒らしたのは——そこの、副総裁様です」
ドロテウスがよろめいた。
「わ、わしは……わしは命じられて……」
言いかけて、老人は、口をつぐんだ。「頭巾のお方」の名を、言おうとして——言えずに、恐怖に青ざめた。その怯えが何より雄弁に、背後の存在の大きさを、物語っていた。
わたしはその名をあえて、問わなかった。今日、届くのはここまで。無理に手を伸ばせば、この老人の命が、危うい。
「副総裁様」
わたしは静かにドロテウスに向き直った。
「あなたは十年前、父から紙を奪い、名を奪い、庭を奪いました。父を罪人に仕立てて。……ですがひとつだけ、お忘れでしたのよ」
わたしは、三枚の紙を掲げた。
「あなたが偽った目録もあなたが封じたつもりの私控えも、あなたが盗んだ棚の番号も。——紙は、ぜんぶ、覚えておりました。契約は、涙より正直です。そして真実は繋がりに宿る。……十年前の、あなたの一晩は三枚の紙の上で、いまも正直に生きておりましたわ」
ドロテウスは、被審者の席に崩れ落ちた。
王命の検め手が、立ち上がり、宣した。
「——先代法伯ゲルハルト・フォン・ヴェッセルの、原本紛失の咎をこれをもって、雪ぐ。失脚は冤罪であったと、王命により認める。名誉は回復される」
広間がどよめいた。
「あわせて。ドロテウス・ハルトゥングの、公証院副総裁の職を罷免。原本庫の細工、公文書の偽造、冤罪の作出——その罪は王の裁きに委ねる」
検め手が、上座を降りてきた。老人の襟へ手を伸ばす。金の鎖の留め金が外れる、小さな音がした。鎖の抜けた官服は、そのとたん、ただの臙脂の布に見えた。
衛兵が両脇に立った。立たされる間際、ドロテウスは、わたしの前で足を止めた。
「……ゲルハルトの小娘。お前は、わしを倒したと思うておろう」
濁った目が、わたしを見上げた。
「だがわしは……わしとて、駒だ。頭巾のあの方の。……お前が本当に暴くべき庫の奥は、まだ開いておらぬ。あの扉を開ける鍵をお前は、一生、手にできまいよ」
言い終えると、老人は自分から歩き出した。廊下の突き当たりで扉が閉まる音が、高い天井に一度だけ返って、それきりだった。
人の引いた大広間で、ヴィンケルが、声を上げて、泣いていた。ミルテが、わたしに抱きついてきた。柵はまだ誰も動かず、父の名を呼ぶ声と拍手が、外の石段まで下りていった。
(お父様。……雪ぎました。あなたの名を。あなたの十年を。)
わたしは、黒檀の印章を握りしめた。高い窓から差す光が、大広間の床を白く、照らしていた——あの日と、同じように。けれど今日はその光の中に罪人ではなく、無実の人の名が、立っていた。
第一部のクライマックス、公開審問です。父の符牒・公式の目録・受入係の私控え——別々の三枚が同じ真実を語り、証人ヴィンケルの証言が加わって、父ゲルハルトの冤罪が雪がれました。ドロテウスは罷免、王の裁きへ。決め台詞「契約は、涙より正直です」を、いちばん大きな山で。
ただし「頭巾のお方」=黒幕の名は、まだ暴けません。ドロテウスも「わしとて駒」と言い残し、開かずの扉と、その鍵は、次の物語へ。
次話、窮した家々が頭を下げに来ます。そして——十年ぶりの、父との再会。




