第27話:夜半の来客
公開審問を三日後に控えた晩。
その報せは、雨とともに飛び込んできた。
「検認人さま! た、大変だ! ヴィンケルの爺さんの長屋に、火が!」
触れ書き屋の親父が、ずぶ濡れで、詰所に転がり込んできた。わたしは椅子を蹴って、立ち上がった。
「ヴィンケルさんは!?」
「無事だ! ハンネスの親方が、見張りに付けてた若い衆が、いち早う気づいて、爺さんを担ぎ出した。けど長屋は……付け火だ。油の匂いが残ってた」
証人を消しにきた。三日後の口を封じるために。
わたしはライナルト様の手配で、ヴィンケルを、執行局の中の、いちばん奥の一室へ移した。私控えは、とうに写しを三通取り、別々の場所に隠してある。原本はわたしが肌身離さず、胸元に。
濡れそぼって運ばれてきた老人は、がたがたと震えていた。ミルテが温かい湯と乾いた布を運ぶ。
「だ、大丈夫でしたか、ヴィンケルさん!」
「……すまん。すまん。わしのせいで、みなに迷惑を」
「迷惑ではありませんわ」わたしは、老人の震える肩にそっと手を置いた。「あなたは証人です。証人を守るのは、迷惑ではなく、務め。……三日、耐えてくださいませ。あと三日で終わりますから」
「……焼けば、消えると思うたのでしょうね」
わたしは雨の窓を見た。
「証人を焼き、私控えを焼けば、あの晩は無かったことにできると。十年前、それで上手くいったのですもの」
「今度は上手くいかん」
ライナルト様の声は、氷のようだった。けれどその奥に静かな怒りが、燃えていた。
「証人は局が守る。写しは散らしてある。……力ずくで消せるものは、もうない」
その夜半、詰所にもう一人の来客があった。モルゲンシュテルン家の家令、ケルナー。傘も差さず、雨に濡れて、けれど、絹の物腰は崩れていなかった。
「夜分に失礼を。……検認人どの。最後にもう一度だけ、申し上げに」
男は慇懃に礼をした。
「三日後の審問、おやめなさい。ドロテウスの罪を、暴くのは結構。あの男は切り捨ててよい駒です。……ですがその先へ指を伸ばせば。あなたを守る大公殿下の、御身が危うくなる」
男の目が、ライナルト様へ、滑った。
「大公殿下。かつて、無実の商家を潰された、過去がおありとか。……あのような『誤り』は掘り返せば、いくらでも出てくるもの。執行官という御役目は脛に傷の多いもの。三日後、余計な証人など、立てられぬほうが殿下のためにも」
脅しだった。ライナルト様の、いちばん古い傷を、そっと抉る脅し。
詰所がしんと静まった。
ライナルト様は、無表情のまま、ケルナーの前に、一歩、出た。
「俺の過去の誤りは、俺の傷だ。掘り返したくば掘り返せ。——俺はあの一件以来、二度と、偽の紙で人を裁かぬために生きてきた。その俺がいま正しい紙を握っている」
灰青の目が、ケルナーをまっすぐに射た。
「脅しで曲がる執行なら、とうに、曲がっている。……お前の主に伝えろ。三日後、扉は開く。開けるのは力ではない。紙だ」
「……大公殿下」ケルナーの、絹の声がわずかに冷えた。「後悔なさらぬよう。我が主は忘れることの、ない方です」
「覚えていてもらって、結構だ」
わたしは、一歩、進み出た。
「ケルナーさん。あなたの主にもうひとつ、お伝えくださいませ。——『取引の申し出は、白紙で、お返しした』と。名誉は事実で返す。脅しには紙で返す。……わたしどもは、あなた方と、違う言葉で話しておりますの。脅しは通じませんわ。互いに無駄でしょう」
ケルナーは、答えなかった。それから絹の笑みをうっすらと浮かべ、礼をして、雨の中へ消えていった。
戸が閉まって、ようやく詰所の空気が緩んだ。ミルテが、詰めていた息を、吐く。
「殿下」
わたしは言った。
「……よろしかったのですか。あなたのいちばん古い傷を、賭けてしまって」
「傷は隠すから弱みになる」
ライナルト様は、いつもの事務口調で言った。けれどその声は、いつもより、ずっと柔らかかった。
「あなたが俺に教えてくれたことだ。——『偽物は、細部に宿る。だが真実は、繋がりに宿る』。俺の傷もあなたの父上の無実も、正しく繋げば、恐れることはなにもない」
わたしは胸の奥が、静かに震えるのを覚えた。
(この方はわたしの紙をいつのまにか、ご自分の背骨に、なさっている。……わたしが、この方の迷いを消したように。この方もわたしの恐れを消してくださる。)
「……ありがとう存じます」
精一杯の淑女の礼をした。声が少しだけ、揺れてしまった。ライナルト様は、それに気づかないふりを、してくださった。署名の前のあの長い一拍のように。
その夜、わたしは写しの一通をベンノ爺に託し、もう一通を父の隠棲する庵へ、密かに送る手配をした。三通の写しと一通の原本。四つの紙が四つの場所で同じ真実を抱く。ひとつを焼かれても、残りが、語る。
「万一、わたしになにかあっても」わたしは、ミルテに静かに言った。「この紙の在処だけはあなたが覚えておいて。……あなたはもう、ただ写すだけの見習いではないのだから」
「はい。……絶対に忘れません」
ミルテの目は、もう怯えていなかった。ランプのように、まっすぐな光を、宿していた。
雨は夜明け前に上がった。三日後の審問の空は、晴れるだろうか。
(お父様。もう誰にも消させません。あなたの晩を。あなたの無実を。)
決戦を前の夜に、二つの手が伸びてきます。証人ヴィンケルの長屋への付け火、そしてケルナーが、ライナルトの最も古い傷を抉る脅し。
けれどライナルトは怯みません。「傷は、隠すから弱みになる」——ユスティーナに教わった「真実は繋がりに宿る」を、今度は彼が握る番。二人が、互いの恐れを消し合う関係になったこと、静かに伝わっていれば幸いです。
力ずくの妨害は、もう効かない。次話、いよいよ公開審問。十年前の夜に、紙が答えを出します。




