第21話:拾う手には、鉤爪がある
クレメンスが詰所を訪ねてきたのは、木枯らしの吹く夕刻だった。
半年前、夜会でわたしを「地味な文書係」と嗤った男は、すっかり面変わりしていた。仕立ての良かった外套は擦り切れ、頬はこけ、指輪の一つも残っていない。
「……ユスティーナ。頼む。話を聞いてくれ」
呼び捨ての声から、あの傲慢は消えていた。わたしは椅子を勧めた。ミルテが、身構えるように、わたしの後ろに立つ。
「父上が臥せった。家は借財で首が回らん。……お前なら、契約を立て直せるだろう。うちの紙を全部、見てくれ。金は——金なら、あるところから、出る」
わたしは、すぐには答えなかった。半年前、この男は、大広間の真ん中で、わたしを指さして嗤った。「地味な文書係が侯爵家の格に釣り合うものか」と。その言葉をいま覚えているのは、たぶん、わたしだけだ。
覚えていても、頁は、めくれる。恨みで紙は読めない。
「あるところとは」
クレメンスは、懐から一枚の証文を出した。上等な羊皮紙。隙のない筆。——見覚えのある、あの「救いの紙」だ。
「モルゲンシュテルン侯爵がうちを、助けてくださるとお約束を。低利でいくらでも用立てると。……あのお方だけが、俺たちを見捨てなかった」
モルゲンシュテルン。原本庫のいちばん奥の匂いのする、あの筆の主。ようやく名前を得た。
わたしは、その融通の証文を、最初の行からたっぷり読んだ。表向きは破格の低利。返済も緩やか。傾いた家にこれ以上ない、慈悲の紙に見える。——けれど。
(第九条。……ここですわね。)
わたしは、その一条を指で押さえた。
「クレメンス。この紙、末尾に近い第九条を読みましたか」
「……いや。難しい言い回しで俺には」
「では翻訳して差し上げます。——『返済が滞りたる時は、バルシュミーデ家が代々公証院に有する、立会の席をモルゲンシュテルン家に譲る』」
「立会の席? そんな、名ばかりの古い格式など、くれてやればいい。金のほうが——」
「名ばかりではありませんの」
わたしは首を振った。
「公証院の古い家柄には原本庫の、いちばん奥に立ち会える席が、世襲で割り当てられています。バルシュミーデ家もその一つ。……侯爵はあなたの家の金ではなく、その席を狙っておいでですわ」
「そんな古い席がなんの役に……」
「役に立つ相手がいるのですわ。原本庫の奥を誰にも見られずに開けたい相手が。——一つの席では足りない。だから沈む家を一つずつ拾っては、席を少しずつ、集めている。返せぬ利で縛って、家名は残してやり、格式だけ、そっと抜く。……家は生きたまま、中身だけ、変わっていくのです」
クレメンスの唇が震えた。ようやく絵が見えてきたらしい。血の気の引いた顔で、それでも、わたしの次の言葉を待っている。
「あの方はあなたを助けているのではありません。潰さぬ程度に生かして、返せぬ借りを負わせ、家に残った最後の格式を、そっと抜き取ろうとしている。……拾う手には、鉤爪がある。差し伸べられた紙ほど、末尾まで読むものですわ」
「……なぜ、そこまで」クレメンスが、掠れた声で言った。「お前をあれほど、侮ったのに。なぜ教える」
「教えたのではありません。読んだだけです」
わたしは、証文を、彼の手に戻した。
「わたしはあなたを救いも、潰しもいたしません。それは公証人の仕事ではありませんもの。……ただ、あなたを縛るのがわたしの違約条項ではなく、その第九条だということは知っておおきなさい。受けるも断るも、あなたの署名しだいです」
クレメンスは、証文を握りしめたまま、長いこと動かなかった。やがて何も言わずに擦り切れた背を丸めて、木枯らしの中へ出ていった。あの夜会の華やかな男の面影は、もうどこにもなかった。
詰所に静けさが戻る。
「……お嬢様はお優しいです」
ミルテがぽつりと言った。
「優しくはないわ、ミルテ。あの人が去年、読まずに署名した紙が、いまあの人を追い詰めている。……それをわたしは、止めてあげなかった。ただ次の一枚は読みなさいと言っただけ」
「でも教えてあげなかったら、あの人、そのまま第九条に署名しちゃったかも」
「そうね。署名したかもしれない。……ミルテ。憎い相手の紙でも、綻びを見つけたら、指してしまうのが、公証人なの。それがいい人だからではなくて——紙の前では、好きも嫌いも置いておくものだから」
ミルテは考えて、こくりと頷いた。この子は、こうして一つずつ、公証人の背骨を、身につけていく。
(けれど、モルゲンシュテルン侯爵。)
わたしは、窓の外の暮れていく王都を見た。
(あなたは、沈む侯爵家の格式を、静かに集めておいでですのね。原本庫のいちばん奥の席を。……ドロテウスですら、届かなかった、あの場所へ。)
夕刻、書類を検めに立ち寄ったライナルト様に、その名を告げると、大公は、めずらしく、黙った。
「モルゲンシュテルン侯爵アルブレヒト。……王家の古い縁戚で、公証院の総裁を、三代にわたって出してきた家だ。原本庫の最も古い鍵を、世襲で預かっている」
灰青の目が、わずかに翳った。
「——執行局の権限でも、あの家の庫の奥には手が届かん」
ドロテウスの背後にいた「届かぬ闇」に、ようやく名前が付きました。モルゲンシュテルン侯爵アルブレヒト——沈む家に慈悲を装って金を回し、返せぬ借りと引き換えに、原本庫の奥に立ち会う古い格式を、静かに集めている大貴族です。
落ちぶれたクレメンスに、ユスティーナは救いも潰しもせず、ただ「次の一枚は読みなさい」と。ざまぁは、いちばん品のいい形で。拾う手には、鉤爪がある——差し伸べられた紙ほど、末尾まで。
次話、父の再調査が、その「届かぬ庫の奥」で壁に当たります。開かない扉の名を、そこで知ります。「拾う手には、鉤爪がある」が刺さった方、評価で一押しを。




