第22話:開かずの間
王命の再調査は、順調に原本庫を遡っていった。
わたしは立会人として、父の符牒の覚え書きを片手に、王宮の書記官とともに、棚を一つずつ検めた。ドロテウスの十年の細工は、地図のとおりに、次々と露わになる。抜かれた正本、書き替えられた登録簿。父の名誉の回復は、もう、手の届くところにある——はずだった。
その調べが、ぴたりと止まった。
原本庫の最も奥。棚の列が尽きた突き当たり。石壁の間に錆びた鉄の扉が、道を塞いでいた。
燭台の火に照らされても、扉は、光を返さなかった。分厚い鉄に古い封蝋の名残がこびりつき、鍵穴は蜘蛛の巣に覆われている。何十年、いや、百年、開けられていないような佇まい。触れると指先に冷たい錆の匂いが移った。
「……この先は」
王宮の書記官が、鍵束を検めて、眉を寄せた。
「総裁の鍵でも開かぬ。ここは『古庫』——院の最も古い原本を納める間で、鍵を預かるのは、代々ただ一家。モルゲンシュテルン侯爵家のみ」
わたしは父の覚え書きの、最後の符牒に目を落とした。棚番号はこの鉄の扉の、向こうを指している。
(お父様。あなたが最後に辿り着いた細工の核心は……この、開かずの間の中。)
(ドロテウスですら、届かなかった。「わたし一人の背丈では届かぬところ」——ここのことだったのですわね。)
照合請求を出しても、古庫の鍵は、モルゲンシュテルン家が「先祖伝来の預かり物ゆえ」と、王命にすら、渋る構えだという。父の失脚の核心の紙は、あの鉄の扉の向こうで、じっと眠っている。手が届かない。
谷だった。ここまで来て、最後の一枚に指がかからない。
その晩、詰所に一人の客が訪ねてきた。
仕立ての良い、黒ずくめの初老の男。モルゲンシュテルン家の家令、ケルナーと名乗った。声も物腰も、絹のように滑らかだった。
「検認人どの。夜分に失礼を。……主より、ことづけを預かってまいりました」
男は慇懃に礼をした。ドロテウスの、あの蜜のような声を思い出す。仕える家は違えど、同じ匂いがした。
「主はあなたを高く買っておいでです。ゲルハルト卿の失脚が、無実であったこと——主も、心を痛めておられる。ゆえにこうご提案を。父君の名誉の回復、我が主の口添えがあれば、王命の場ですぐにでも成りましょう」
男は懐から一枚の書付を出して、卓に置いた。すでに宛名も文言も整った、嘆願の下書き。父の名誉回復を求める、完璧な一枚。あとはわたしの署名を、待つばかりの。
「ご覧のとおり、紙は、もう整えてございます。あなたがここに一つ、印を捺すだけで。……十年、待たれたのでしょう。父君の無実の証しを」
「……その代わりに?」
「古庫の奥を探るのはおよしなさい」
絹の声がほんのわずか、冷たくなった。
「あの間は王家の古い秘め事も納める、聖域。あなたが手を伸ばせば、あなたを守ってくださる大公殿下にも、累が及びかねません。……父君の名誉だけを、お取りなさい。それで十分ではありませんか。欲をかかぬことです」
名誉の回復と庫の奥の沈黙。それを天秤にかける取引。
喉まで出かけた返事を、飲み込んだ。……答えられなかった。父の名誉は、十年、待ち望んだもの。それがいま目の前に差し出されている。庫の奥を諦めるだけで。
「……お返事は後日、書面で」
「賢明な。では良いお返事を」
ケルナーは卓の嘆願書を、そっとわたしの手元へ押し出した。父の名誉をあと一つの署名で買える紙。それを残して、絹の物腰は、滑るように去っていった。
嘆願書の余白が、灯の下で白く光っていた。ここに印を一つ。それだけで父は、罪人でなくなる。十年待った。父の隠棲の庵を思うたび、爪が食い込むほど、待った。
詰所に重い静けさが残った。ミルテもベンノ爺も、口を開けずにいる。
「お嬢様」
間があって、ベンノ爺が言った。
「旦那様は……あの晩、同じ取引を断られました。『黙って庫の奥を見なかったことにすれば、法伯の座は安泰だ』と持ちかけられ、それを蹴って、告発に向かわれた。……そして嵌められた」
老書記の声が震えた。四十年、この家に仕えた男の、いちばん深い傷だ。
「わたくしはあの晩、旦那様をお止めしませんでした。『行かれますな』と言えませんでした。……もし、あのとき、取引をお受けになっていたら、旦那様はいまも法伯でいらしたでしょう。庭も名も失わずに」
「けれどそれはお父様ではないわ」
「……はい。それは旦那様では、ございませんでした」
「ええ。……知っているわ、ベンノ」
(お父様。あなたは名誉より庫の奥の真実を、選ばれた。そして庫にも名誉にも、届かぬまま、十年、隠棲なさっている。)
(わたしが、名誉だけを受け取れば。……あなたは、無実の人に戻れる。でも庫の奥の細工は、闇に沈んだまま。あなたが命がけで見つけたものは、無かったことに。)
卓の上で、指の背が、冷えた真鍮の燭台に触れた。
「取引は契約ですわ、ベンノ」
自分に言い聞かせるように、わたしは言った。
「ならば——受ける前に条項を、読まなければ。『名誉だけで十分だろう』という、その甘い一文の裏に何が隠れているか。……欲をかくな、と急かす紙ほど、末尾まで読むものよ」
窓の外、王都の灯は、いつもより遠く見えた。開かずの間の、錆びた鉄の扉が、瞼の裏に重く沈んでいた。
父の名誉回復は目前まで来て、最後の核心が「開かずの間(古庫)」——モルゲンシュテルン家が世襲で鍵を預かる、王命すら届かぬ聖域——に阻まれます。
そして差し出される取引。「父君の名誉だけをお取りなさい。庫の奥は探るな」。十年待った名誉と引き換えに、沈黙を求める絹の声。父ゲルハルトが十年前、同じ取引を蹴って嵌められた——その因果が、いま娘の前に。
欲をかくなと急かす紙ほど、末尾まで。次話、ユスティーナは扉を開けずに真実へ届く糸口を見つけます。お読みいただきありがとうございます。ブックマーク・評価で応援いただけると、とても励みになります。




