第20話:要石は、抜けてから分かる
その半月、執行局の詰所には、同じ家紋の紙ばかりが積み上がった。
三ツ星に剣。バルシュミーデ侯爵家の紋だ。
「また、バルシュミーデ絡みか」
ライナルト様が、申立ての束をめくって、低く言った。材木商からの代金未払い、石工組合との普請の破談、両替商への借財の焦げつき。——かつて王都で指折りの富貴を誇った家の名が、督促の紙の上ばかりに、並んでいる。
詰所の空気は羊皮紙の埃と、封蝋の匂いでいつもより重かった。ミルテが申立てを日付ごとに仕分けながら、目を丸くする。
「お嬢様。バルシュミーデって……お嬢様を、その捨てたお家ですよね。なのにこんなに紙が」
「ええ。捨てた家の紙がいま、いちばんわたしの机に集まってくる。……皮肉なものね、ミルテ」
一枚、また一枚。督促、差押えの申立て、支払いの猶予願い。どれもひと月前までは「格の高い」家の名で、誰も逆らえなかった紙だ。それが今は追い立てる側でなく、追い立てられる側で、並んでいる。
「殿下。この一件、少し妙ですわ」
わたしは一枚を抜き出した。ヴァント両替商が、バルシュミーデ家を訴えた紙。
「侯爵家は、先月、ヴァント両替商から金三千ターレルを借りております。その担保が——グランベルク銀鉱山」
「……封札した、あの銀鉱山か」
「はい。わたしが婚約の違約条項で差し押さえ、偽造の一件のあと再び封札を貼った、あの鉱山。とうに侯爵家の自由になる物件ではありません。それを担保に差し出して、金を引いた」
借財の証文の日付を、指で押さえる。封札を再び貼った日より、ひと月も後。
「封札を隠して借りたのですわ。ヴァント両替商は鉱山がすでに執行下だと知らずに、金を渡してしまった。……騙されたのは、この両替商のほうです」
わたしは、二枚の紙を卓に並べた。ヴァントの借財の証文と、執行局が銀鉱山に封札を再び貼った日の、記録。
「殿下。日付をご覧くださいませ。封札を貼り直したのが、こちら。侯爵家がヴァントから金を引いたのが——その、ひと月あとです。すでに封じた担保を封じたと知りながら、もう一度、別の相手に差し出した」
「担保を二度、差し出したわけだな」
「ええ。婚約破棄の違約に一度。ヴァントの借財に二度。——同じ鉱山を。しかも、二度目は、封札を隠して」
わたしは、息を落とした。
(潰したいわけでは、ありませんの。……けれど、こうも、綻ぶものかしら。)
ヴァント両替商の主人は、詰所に呼ばれて、青ざめて震えていた。小さな店を代々守ってきた実直な男だ。
「て、店が……三千を焦がしたら、うちは終わりで」
「大丈夫ですわ」
わたしは証文と封札の記録を、並べた。
「あなたは封札を隠されて金を渡した被害者。侯爵家が差し出した担保は、そもそも侯爵家のものではありません。この借財は、担保の偽りによる欺き。——あなたの三千は、侯爵家の他の財から、取り立てられます。執行局の名において」
両替商がへなへなと椅子に沈み込んだ。ごつい指で何度も目元を拭う。
「うちのような、小さな店の紙を……検認人さまが、そんなに丁寧に読んでくださるなんて」
「小さな店の紙ほど、丁寧に読むものですわ。大きな家は読まれなくても、押し通せますもの。……守られるべきはいつも読まれない側です」
ライナルト様が、静かに執行の受理に署名した。いつもの一拍のあとで。
その日の帰りぎわ、大公は、めずらしく、自分から口を開いた。
「エーベルヴァインの記録係に、この半月の紛争を洗わせた。——王都で綻んだ契約の、実に多くがヴェッセル家が、かつて起草に関わった契約の、すぐ隣で起きている」
わたしの指が止まった。
「婚姻の取り決め、土地の証文、商いの約定。……あなたが繕ってきた紙が、抜けたあとから、周りの契約ごと崩れ始めているように見える」
(要石は抜けてからその重さが分かるもの。)
(お父様。あなたとわたしが、名も出さずに支えてきた紙は……こんなにも、たくさんの家を、繋いでいたのですわね。)
わたしは誇らしさと、うすら寒さを同時に覚えた。わたしを「文書係」と嗤って捨てた家々が、いま、わたしの抜けた穴から、順に沈んでいく。誰かを憎んで潰したのではない。ただ読まずに署名してきた紙が、支え手を失って、正直に崩れているだけ。
——けれど。
わたしは束の中のたった一枚に目を留めた。
バルシュミーデ家の契約で、ただ一つ、破綻を免れているものがあった。北の農地を巡る大口の融通。誰かが傾いた侯爵家に、そっと金を回して、この一件だけを、支えている。
わたしは、その一枚を灯にかざした。封蝋の押し目。羊皮紙の上等な艶。文言の隙のない運び。——傾いた侯爵家が、こんな上等な紙で、契約を結べるはずがない。
指の腹で封蝋の縁をなぞる。冷たく硬く、そして——迷いのない、深い押し。偽造の癖の「左肩の沈み」とは、また違う。これは本物の、けれど見慣れない印だ。
(この筆は……侯爵家のものではありませんわ。院のいちばん奥から来た匂いがする。)
(誰かが沈む家に手を差し伸べている。……こんな時に、無償で? いいえ。無償の紙など、この国には、ありませんのに。)
お読みいただきありがとうございます。ここから第一部の後半、山場への助走です。
捨てた家々が沈み始める——ユスティーナが憎んで潰すのではなく、彼女という要石が抜けた穴から、読まずに署名されてきた契約が、正直に崩れていく「じわざまぁ」の可視化が始まりました。銀鉱山を二度担保に出す侯爵家の軽率、それに騙されかけた実直な両替商。
そして、沈む侯爵家に差し伸べられた、たった一枚の「救いの紙」。無償の紙などない国で、誰が、何のために——次話は、その手の正体に近づきます。ブックマーク・評価で応援いただけると、とても励みになります。




