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婚約破棄? ご自由に。ただし違約条項は執行させていただきます 〜「地味な文書係」と捨てられた令嬢、その婚約契約書を書いたのはわたしです〜  作者: 白石アリア


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第19話:紙は、庭を覚えています

 叔父が届けさせた付随の紙は、ひと抱えもあった。


 前払いの受領書、荷の見本のやり取り、商会との往復の書付。わたしはミルテと二人、夜更けまで一枚残らず読んだ。ほとんどが、本契約と同じ穴だらけ。……けれど、一枚だけ、光る紙があった。


「ミルテ。前払いの受領書をもう一度」


 わたしは、その一文を指で示した。バルツァー商会が、五千ターレルを受け取った証しに、自ら書いた一行。


「『前払い金受領につき、良材の見本一車を、来月中に先渡しいたす』——ここ。『来月中に』」


「あ……期日があります!」


「そうよ。本契約には無かった期日が、受領書にはある。商会が前払いを引き出したいばかりに、うっかり書いてしまった約束。見本の一車は一昨年の暮れの、翌月まで——とうに一年半、過ぎていますわ」


 良材の全部をいつ納めるか。それは、いまも約束されていない。五千ターレルのすべてを、すぐに取り戻すことは、できない。


 けれど見本の一車だけは、違う。「来月中に」と商会自身が期日を書いた。それが果たされていない以上、これは、紛れもない不履行。ここを梃子にすれば、商会を交渉の卓に着かせ、前払い金のいくばくかは取り戻せる。


 翌朝、叔父にそう伝えた。


「では……五千、すべては」


「戻りません。半分も難しいでしょう。……叔父様。わたしにできるのは、あなたの署名が、果たせる分だけを果たさせること。それだけです」


 叔父は、うつむいていた。それから深く頭を下げた。半年前、暖炉の前で反り返っていた、あの人が。


「……すまなかった」


 文書係へではなく姪へ向けられた言葉だった。


「お前を紙の虫と呼んだ。名も功もわしの名義に沈めた。……それをいまさら、詫びて済むとは、思わん。だが」


「叔父様」


 わたしは遮った。


「わたしはあなたを潰すためにこの受領書を読んだのでも、救うために読んだのでもありません。ただ紙に書かれた約束を、書かれたとおりに果たさせるだけ。……わたしが奪うのでも、恵むのでもないのです。あなたの署名が、あと少しだけ、あなたを守ってくれる。それだけのこと」


 叔父は何も言えずにもう一度、頭を下げた。ヴェッセル家は傾いた。けれど根こそぎには、ならずに済む。——それが条理のいちばん品のいい形だと、父が教えてくれた。


 その日の午後、公証院から思いがけない客が来た。


 王命の検め手を務める、王宮の書記官だった。ヴァルター師を伴っている。


「ユスティーナ嬢。……先代法伯ゲルハルト卿の、失脚の件。王命により再調査が、正式に始まった。ついては」


 書記官は居住まいを正した。


「そなたが公開審問で示した、あの符牒の覚え書き——原本庫の細工の、地図。あれを再調査の正式な手がかりとして、用いたい。そなたに立会いを願いたいのだ」


 わたしは、黒檀の印章を握った。柄の底の二重底。父が十年前、王都を追われるその晩に、娘に託していった、細工の地図。


(お父様。……あなたの遺した紙が、とうとう、王命を動かしましたわ。)


「——謹んでお受けいたします」


 声が少しだけ震えた。淑女の仮面の裏で、頁を繰る、いつもの冷たい指が、このときばかりは、温かかった。


 窓の外を触れ書き屋の刷り物が、風に乗って回っていく。「ヴェッセル法伯の失脚、再調査へ」。父の名が罪人としてではなく、被害者として、王都を回る。十年ぶりに。


 書記官たちを見送り、詰所へ戻ると、門前の紙の山は、また、少し高くなっていた。マレーネが焼いたというパンが、籠いっぱいに届いている。ハンネス親方が、次の取引の証文を、「今度は納める前に」と、置いていったらしい。


 かつては、恐れられる封蝋だった。「あの検認人に睨まれたら、家が沈む」と。それが今は、頼られる封蝋になっている。「あの検認人の印があれば、紙に泣かされずに済む」と。


(庭は狭くされたけれど。……ずいぶん、賑やかになりましたわね。)


 夕刻、書類の束を検めに、ライナルト様が立ち寄った。


 いつものように、勧めた椅子に当然の顔で座る。けれどその日は、すぐには書類を開かなかった。


「父上の再調査が動いた、と聞いた」


「はい。……殿下が公開審問で、二重の鍵を突きつけてくださったおかげです」


「俺は扉を選ばせただけだ。……開けたのは、あなたの紙だ」


 大公は、束の中から一枚を抜いた。わたしが起こした、検認の書き付け。灰青の目が、末尾の黒檀の検め印に、留まる。


「十年前、俺は偽の紙を信じて、無実の織物商を潰した。……以来、紙が怖かった。正しく読めなければ、俺は、また、誰かを潰す」


 署名の前にいつもの一拍。けれどその一拍は、いつもより長かった。


「あなたの紙は、怖くない。……あなたの紙なら、俺は迷わず執行できる。それがどれほど——」


 大公は、そこで言葉を切った。


「……どれほど、得難いことか」


 業務評価の形をした言葉。けれどその灰青の目が、末尾の検め印から、わたしの顔へ、ほんの一瞬、移って——また、書類へ戻った。


(あら。……いまのは。)


(業務評価の、外の一拍でしたわね。殿下。)


 わたしは、気づかないふりをして、茶を淹れた。とびきり濃いのを。恋の話は契約と違って、期日を書き込むものではない。ゆっくりと相手の署名を待てばいい。……そういう約束も、あるのだと、この方といると、思えてくる。


 その晩、書庫の灯を落とす前に、わたしは、写し取っておいた、あの押し目をもう一度、広げた。


 左肩の深い沈み。クレメンス。フォークト商会。バルツァー商会。……同じ手が王都のあちこちの紙に、偽りの印を混ぜている。ドロテウスは、職務停止になった。けれど印を彫るこの手は、まだ動いている。


 ——「この院の闇は、わたし一人の背丈では、届かぬところにある」。


(原本庫のいちばん深いところ。……ドロテウスですら、届かなかった、その先。)


 わたしは押し目の写しを、黒檀の印章の隣に、置いた。父の地図と偽りの印。二枚の紙が、次の頁を静かに指し示している。


(お父様。名誉を取り戻します。庭も名前も。……そして、その庭のもっと奥にある闇にも、いつか、手を届かせてみせますわ。)


(紙は、庭を覚えています。誰が耕し誰が奪ったか。……一枚残らず。)


 燭台の火が、ずいぶん短くなっていた。書庫の卓には、明日読む紙が、まだ積んである。

第一部の、三つ目の山です。越えた先に、もっと深い場所が見えました。

 叔父の件は、受領書に商会が「うっかり書いた」期日を梃子に、取り戻せる分だけを。全部は救わず、私怨で潰しもせず——ざまぁは、いちばん品のいい形で。そして父の失脚が、王命で正式に再調査へ。十年ぶりに、父の名が被害者として王都を回ります。

 恐れられる封蝋から、頼られる封蝋へ。ライナルトの「得難い」に滲んだ、業務の外の一拍。恋は、期日を書き込むものではなく、ゆっくり署名を待つもの——だそうです。

 そして、写し取られた偽りの印の押し目。左肩の沈みは、まだ、王都のどこかで動いている。次のアークは、父の名誉回復と、原本庫の「届かぬ闇」へ。ここからが、いちばん深いところです。ゆっくり署名を待つ恋に胸が動いた方、ブックマークで次の頁までご一緒ください。

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