第18話:定めなき約束は、果たされません
叔父オイゲンは、詰所の粗末な椅子を、いかにも忌々しげに眺めてから、腰を下ろした。
半年前、当主の執務室で「文書係が意見するか」と言い放った、あの尊大な背は、どこか縮んで見えた。目の下には深い隈。
「……お前も、聞いておろう。バルツァー商会のことだ」
「風の噂に少しばかり」
わたしは湯気の立つ茶を、叔父の前に置いた。ミルテが、部屋の隅で身を硬くしている。
「材木が来んのだ」叔父は、茶に手も付けずに吐き出した。「前払いの五千ターレルは、去年の暮れにきっちり渡した。なのに良材が一本も届かん。催促に人をやれば、商会は『ただいま、とびきりの良材を吟味しております』の一点張り。……もう半年だぞ。北の倉は柱も立たぬまま、雨ざらしだ」
「催促の書面はお取りになりまして?」
「取った。取ったとも。したら商会は、こう抜かしおった」
叔父の顔が屈辱に赤らんだ。
「『契約書のどこに、いつまでに納めよと書いてございますか』——とな。『期日の定めがない以上、良材が揃い次第、納めます。それまでお待ちを』……ぬけぬけと!」
わたしは、卓に広げられたその一枚を検めた。半年前、卓の端から一瞥した、あの紙。改めて、父に叩き込まれた順で、目を走らせる。
署名、良し。印章、良し。金額、五千ターレル、良し。品目「良材」良し。——そして。
(納めの期日なし。品を検める定めなし。前払い金の返還条項なし。……半年前と一字も変わらず、穴だらけ。)
「ユスティーナ」
叔父が、初めて、わたしの名を呼んだ。文書係でもお前でもなく。
「お前なら、この紙をどうにかできよう。お前はあの偽造の侯爵家を紙一枚で沈めた娘だ。……この契約も、どこぞに綻びがあろう。それを突いて、五千ターレルを取り戻せ。倉が建てば、家は……ヴェッセル家はまだ」
叔父はそこで言葉を切り、絞り出すように続けた。
「……戻ってこい。書庫の机を、また、お前のために空けておく。以前のとおりにこの家の紙を回してくれ。悪いようにはせぬ」
以前のとおりに。
(十年ですわね。)
胸の奥で静かに頁がめくれた。父が院を追われたあの日から、この方がわたしを「紙の虫」と呼び、書庫の隅に飼い殺しにしてきた、十年。婚礼の契約も地代の証文も蔵の借り入れの一枚に至るまで、わたしの名も功も、すべて叔父の名義に沈めて。
(怒りなさい、ユスティーナ。怒っていいわ。……でも、怒りで紙は読めない。頭は冷たく。)
わたしは、証文を卓へ戻した。
「叔父様。ひとつだけ、はっきりと申し上げます。——この契約は、わたしは書いておりません」
「……なに?」
「一昨年の暮れ、あなたが『わし自らがまとめた』と、胸を張られた紙です。わたしは半年前、『納めの期日が書かれておりません』と、一度だけ、申し上げました。あなたはこう仰いましたわ。『黙れ。文書係が意見するか』と」
叔父の顔から血の気が引いた。
「わたしは忠告をいたしました。一度きりたしかに。それを退けて、読まずに判をお捺しになったのは、叔父様、あなたご自身でございます」
「だ、だがお前ならば——」
「ではその紙がいま何を約束しているか、読んで差し上げます」
わたしは、条文を指でなぞった。
「バルツァー商会は『良材を、納める』と約束しました。それだけです。『いつ』とは約束していません。『半年で』とも、『一年で』とも、どこにも。……期日の定めのない約束は、いつまでも果たさぬままで契約違反になりませんの。商会の言い分は悪辣ですけれど、紙の上では正しいのですわ」
「そんな馬鹿な話が——」
「馬鹿な話を正しくしてしまうのが、穴だらけの紙です。——叔父様。書面がなければ、公証人は無力なのです。無いものは読めません。書かれていない期日をわたしが後から書き足せば、それは商会がやった偽の加筆と、同じことになります」
叔父は椅子の上で崩れるようにうなだれた。半年前、暖炉の前で反り返っていた胸が、今は、しぼんだ革袋のようだった。
(潰したいわけでは、ありませんわ。……でも救ってあげたいわけでも、ないのです。)
(わたしがこの手で潰せば、それは私怨。救えばそれは甘え。……どちらも、紙の仕事ではない。)
「取り戻せる分があるかどうか。それはこの一枚だけでは決められません。前払いのときに交わした、受け取りの証しや、荷の見本の遣り取り——付随の紙を、すべて、お持ちくださいませ。読んでみなければ、何もお約束できません」
「……それだけか」
「それだけです。ですがそれが公証人にできる、精一杯の誠実です」
叔父は、しばらく動かなかった。のろのろと立ち上がり、付随の紙を届けさせる、とだけ言い残して、詰所を出ていった。去り際、一度だけ、わたしを見た。その目に浮かんでいたのが、恨みだったのか、悔いだったのか、わたしには読めなかった。
叔父が去ったあと、わたしはバルツァー商会の証文を、もう一度光にかざした。
——そして、末尾の商会印の押し目に、指を止めた。
(この左肩の沈み。……見覚えがありますわ。)
左肩が深く沈む。同じ手が押した、偽りの印の癖。クレメンスの偽造合意書。フォークト商会の偽の商会印。……そして今、叔父を嵌めた、バルツァー商会の紙。
(同じ工房。同じ、偽りの印を彫る手が、この王都の、あちこちの契約に、そっと混じっている。)
(クレメンスも、叔父も、ただ利用されただけ。……この紙を配って回っている手は、もっと上にある。)
ドロテウスの去り際の言葉が、耳の奥で蘇った。——「この院の闇は、わたし一人の背丈では、届かぬところにある」。
わたしは、その押し目を写し取った。届かぬところ。まだ遠い。けれど確かにそこにある。
かつてユスティーナを「紙の虫」と飼い殺しにした叔父オイゲンが、自分でまとめた期日なしの契約に足を取られ、頭を下げに来ました。
けれどユスティーナは、私怨で潰しもせず、甘えで救いもしません。「わたしは、書いておりません。読まずに判を捺したのは、あなたです」——ざまぁは、静かに、条理で。忠告は一度だけ、いたしましたので。
そして最後、バルツァー商会の偽の印の押し目に浮かんだ、左肩の沈み。クレメンスも叔父も、利用された駒。配って回る手は、もっと上に——ドロテウスの言う「届かぬ闇」の、遠い影です。次話、叔父の件に始末をつけます。取り戻すのは、全部ではありません。「忠告は一度だけ」に溜飲が下がった方、評価で背中を押していただけると励みになります。




